ライフスタイル
榎本樹羅
2024年10月3日

親元を離れて香川で寮生活。厳しくも財産になった高校生時代を語る|榎本樹羅の「陸上競技を人気スポーツにするぞ!」 (1/2)

みなさん、おはようございます! こんにちは! こんばんは!

榎本樹羅です。今回は榎本樹羅の陸上競技生活の思い出・高校編をお送りします。

慣れ親しんだ兵庫を離れ香川県で寮生活

中学での陸上を終え、高校は兵庫県内ではなく、香川県にある『四国学院大学香川西高等学校』に進学しました。なぜ県外の高校を選択したのか、気になりますよね?

香川西高・青海監督と

その理由としては、数々の高校に練習に行ったなかで、一番自分の中でしっくりきたからです。もちろん県外の高校に進学するということは、必然的に寮生活になるということは承知の上でした。

好奇心旺盛な私は寮生活に抵抗がなく、「ここで強くなろう」と覚悟を決め、15年間慣れ親しんだ兵庫県を離れ、香川県で高校生活がスタートしました。

結論からお話すると、私がこの『香川西高』を選択したことに一切の後悔はありませんでしたが、高校3年間は想像を絶するほど過酷なものだったなと思います……。

陸上部の青海監督が「優勝する選手である前に優秀な選手であれ」とよく口にしていました。その通りの競技生活といいますか、私生活といいますか……とにかく人間として当たり前のことを徹底的に叩き込んでいただきました(監督ありがとうございます)。

上下関係やルールがかなり厳しい学校でしたが、今となってはそれがありがたいことだったのだと感じます。

とくに思い入れがあるリレー種目

福井国体・走幅跳で5位入賞

リレー種目は1年次→優勝、2年次→2位

競技で一番嬉しかったことは、四国インターハイにおいて4×100mリレーで優勝したことです。私は1年生の時に四国新で優勝を経験させてもらいましたが、2年生時は『今治北高校』に負けてしまい2位でした。最後の年に王座奪還したいということで、リレーメンバー全員でかなり力を合わせて練習に取り組みました。

当日は雷雨がひどく、決勝では30~45分ほど競技が中断していました。予選はライバル校であった愛媛『済美高校』と同じく2着でゴール。絶対に王座奪還したいという気持ちがあったため、ここで負けたことがもうすでに悔しかったです(超負けず嫌い)。

決勝は雨と雷で競技が一時中断し、集中力や寒さとの戦いでした。とにかく体を冷やさないように、集中力を切らさないようにすることで精一杯。

レースが始まると1走から2走にバトンが渡った時点で「このままいけば勝てる。逃げ切れる。」と感じました。1走の走りに背中を押されるように2,3走とバトンを運んでくれました。私はアンカーだったので「とにかく逃げる」の1択でした。

ケガを抱えながらも強行出場した最後の四国インターハイ

2年生時の四国インターハイで100m優勝後に嬉し泣きをする私

しかし、当時の私は膝の靱帯2本と半月板を損傷しており、本当は走ってはいけない脚の状態でした。そんな最悪な状況でも、私にとって最後のインターハイ。"棄権する"という選択肢はありません。そのため100mも走幅跳も4×100mリレーも4×400mリレーも全部出場するという選択をしました(本当におバカです)。

結果は100mの前回覇者であるにも関わらず7位に終わり、全国インターハイには出場できず。走幅跳では5位で全国インターハイにギリギリの出場と、個人種目では思うような結果が出せずとても落ち込みました。

そんななかで4×100mリレーは私にとっては特別なものであったため、

「1番でバトンを渡してくれたらとにかく逃げる……済美は速いけど……」

そう思いながら、テーピングでぐるぐる巻きにされた脚を必死に動かしました。3人のおかげで1着でゴールできました。やっと優勝を取り戻せた。3年間がんばってきたことが報われた瞬間でした。

最後の年、雨の中の『四国インターハイ』4×100mリレー優勝後に健闘を称え合う

次のページ:寮でのヒトコマやテレビ出演した時、制服姿の写真など

1 2