2017年8月9日

「もう野球は辞めた」。移籍を経て失った、野球への情熱。山﨑武司氏(前編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #3】

 元プロアスリートという経歴を持ちながら、現在は別のフィールドで活躍している方をフォーカスする本企画。人生のターニングポイントで下してきた大きな決断にまつわるエピソードや、その時の心境など、今だからこそ語れる貴重なエピソードを紹介していきます。

《後編》
・いつかは“監督”として球界に。山﨑武司氏(後編)

 第3回は、球界屈指のスラッガーとして、中日ドラゴンズや楽天イーグルスなどで活躍した山﨑武司氏。40代で通算400号本塁打を達成するなど、球史に残る大きな実績を持つ氏の野球人生は、苦難苦境の連続だったという。節目ごとに迫られた決断の数々や、現在のことについて語ってもらった。

捕手を辞めることが、まずの大きな決断だった

--プロ野球選手を目指した時期や、きっかけについて教えてください。

 中学時代は大して良い選手でもなかったのですが、兄が愛知工業大学名電で教育実習をやっていたこともあって、その関係でテストを受けさせていただき、合格したのがまずのきっかけです。高校で野球をやるなら、もちろん誰でも甲子園を目指すところでしょうけど、私の目標は甲子園に出場することよりも、プロ野球選手になること。つまり、プロになるために愛知工業大学名電へ入学したというのが正直な理由です。とはいえ、夢を見るのは自由ですからね。当時の私も子どもが将来の夢を語っているレベルでした。

--しかし、実際にドラフト2位で中日ドラゴンズへの入団権利を獲得します。

 高校二年生くらいからスカウトが観にきたり、監督から頑張ったらプロへ行けるぞと発破をかけてもらったりしていたので、指名いただけたときは素直にうれしかったですね。とはいえ、実は父親の影響で長く巨人ファンだったもので、当初は巨人に入れたらいいなと思っていたのは今だから言える話ですね。

--そして入団後、すぐに1軍で活躍するという状況ではありませんでした。その時期のお話を聞かせてください。

 星野(仙一)監督の指示で、入団してすぐにフロリダへ野球留学しました。やるからには何かしら得て帰らなきゃいけないと思ったのですが、結局半年くらい滞在して、確固たる結果を残せないまま戻った格好です。その後は、1軍と2軍を行き来する選手生活を送っていたのですが、なかなかきっかけを掴めないまま時間が経ってしまったという印象です。

--当時の状況を打破するために何か工夫をしたり、はたまた大きな決断を下したなどのエピソードはありますか。

 ズバリ言うと、キャッチャーを辞めることを決めました。長く守ってきたポジションだったのですが、性格的にあまり合っていないのは分かっていたので、どこかのタイミングで辞めたいと。その大きなきっかけとなったのが、1989年(10月19日)の広島戦でした。当時盗塁王を狙っていた正田耕三選手に5盗塁を許してしまい、結果として1試合で計6盗塁という日本プロ野球のタイ記録を樹立されてしまったんです。汚点以外の何物でもないですから、周囲はいろいろと気をつかってくれましたが、私は内心「これでキャッチャーを辞められる」と、少しホッとしていたのは否めません。

 しかし、監督からクビのお達しはなく、「まだやれ」と。結局、私がキャッチャーを辞められたのは、それから1年後になります。見かねた星野監督から、「もうええわ、好きなところやれ」と言われまして、やっとキャッチャーというポジションから離れることができたのです。そこで外野にコンバートしたのですが、その時はもう必死というか、ここでダメだったらもうオレには居場所はないという気持ちで臨みました。それがプロになって最初の転機というか、キャッチャーを辞めるというのがまずの大きな決断でした。

移籍後に空回り、現役を退く決断を下す

--その後、96年にホームラン王を獲得するなど、それまでの沈黙が嘘だったの如く、破竹の勢いで主力として結果を残します。そこから移籍まで、どのようなことがあったのでしょう。

 ホームラン王を獲得したのも外野を守るようになってからですし、コンバートしていなかったら、選手生活はグッと短くなっていたと思います。その後、99年に本拠地がナゴヤドームに移ると、今度は外野からファーストにコンバートしたのですが、別に問題なく、打撃に集中できていましたし、調子もさほど悪くない状況でした。

 歯車が狂ってしまったのはその後、私がFA権を行使してからになります。つまり、移籍の件です。2002年にドラゴンズを辞めてオリックスへ移籍するわけですが、それまでにはいろいろと裏話があって。実は当初、横浜ベイスターズ(現 横浜DeNAベイスターズ)に誘ってもらっていて、話も順調に進んでいたんです。でも、当時就任したばかりの山田(久志)監督に引き留めていただき、それに応える形で残留しました。しかし、3年間という猶予があった甘えからか、スタートダッシュに出遅れしまい、パッとした成績を残せないままシーズンを消化していったんです。

 そこで監督と折り合いがつかなくなり、「もうやっていられない」と。FA権を行使した最初のシーズンオフに球団へ移籍先を探してくれとお願いし、結果としてオリックスへ移籍する形になったんです。3年契約なので、複数年残っていたのですが、もうここではやっていけないという気持ちが大きくなり、無理矢理、移籍した格好ですね。

--そして長く在籍していたドラゴンズを離れ、次はパ・リーグの球団、オリックスへと場を移すことになりますが、どんな時間でしたか。

 一言で表現するのは難しいのですが、まず環境の比較をしてしまったんですね。当時のオリックスは順位も低く、活気もない。さらに人気もさほどない状況でした。ドラゴンズ時代は常に満員のスタジアムでプレーしていたものですから、そのギャップにまず戸惑ったあたりは否めません。

 決定打になったのは、監督とソリが合わなかったことでしょう。士気も下がるし、自身の野球力も落ちているのが分かっていました。そこで監督との衝突があって、「ああ、もう無理だな」と。結局オリックスには2年在籍して、契約満了のタイミングが迫ったところではじめて「野球を辞めよう」という決断を下しました。

⇒《後編》に続く
・いつかは“監督”として球界に。山﨑武司氏(後編)

[プロフィール]
山﨑武司(やまさき・たけし)
1968年11月7日生まれ。愛知県知多市出身。元プロ野球選手。1987年、中日ドラゴンズにドラフト2位で入団。本塁打王、打点王、最多勝利打点などのタイトルを獲得するなど、球界屈指のスラッガーとして支持を集める。2013年に現役を引退し、コメンテーターとして活躍する傍ら、学生向け講演の講師やレーサー、俳優として活躍している

<Text:上野慎治郎(アート・サプライ)/Photo:小島マサヒロ>