ハードルと私│寺田明日香の「ママ、ときどきアスリート~for 2020~」#24 (1/3)
みなさん、こんにちは! 陸上競技の寺田明日香と申します!
前回の更新のときは、まだ“ポカポカ陽気”くらいのお天気でしたが、最近はトラックでの練習になると「あつい〜!」と言いながら走る日もでてきました。
道産子の私にとって、東京の夏は地獄ですが、来年の東京オリンピック・パラリンピックは、真夏の真っ只中での開催になります(オリンピックは7月24日〜8月9日、パラリンピックは8月25日〜9月6日)。
昨年の夏は、ラグビーの練習をしていたため芝生の上で蒸されて過ごしましたが、今年はトラックの上でジリジリ焼かれながら練習して、耐性を持っておく&対応策を考えておかないとなぁと思う今日このごろです(アラサーには紫外線がこたえます……!)。
さて、今回の記事は、題名からしてポエマー感が出ていますが……。ハードルをはじめたきっかけや4月13日に走ったハードルの復帰初戦のことなどについて書いていこうと思います。
最後まで、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします!
ハードルと私の出会い
▲北海道ハイテクACに所属していた頃。写真左から、福島千里選手、私、北風沙織選手
そもそも、ハードルとの出会いは高校1年生のとき。当時、北海道の恵庭北高校の陸上部顧問だった中村宏之監督(現:北海道ハイテクAC監督)に、「ちょっとハードルを跳んでみろ」と言われたことがきっかけです。
それまで私は、100m以外はほぼ走ったことがなかったので、ハードルはミニハードルを並べて走るか、ハードルジャンプなどの補強でしか使ったことがありませんでした。
しかし、父がハードル選手だったと聞いていたことや、先輩方の練習を見ていてハードルに対する苦手意識などはなく、中村監督に「跳んでみろ」と言われたときにも、「おもしろそうじゃん」くらいにしか考えていなかったと思います。
高さ84cmのハードルに対する恐怖心や8.5mのインターバルに対する苦手意識などは、ハードルを跳びはじめたころからありませんでした。
中村監督が私にハードラーの適性をみていたかは定かではありませんが、高校入学と同時にはじめた100mハードル(以下、100mH)で、私は高校1年生〜3年生のインターハイで3連覇することになりました。そして、そこから100mHをメインにする選手になったのです。