インタビュー
2019年11月18日

中学は努力不足で勝てなかった。その挫折を経て主体的に練習するようになった。バドミントン元日本代表・池田信太郎(後編)|子どもの頃こんな習い事してました #27 (1/2)

 スポーツ界の第一線で活躍しているアスリートに、幼少期の習い事について訊く連載。自身の経験を振り返っていただき、当時の習い事がどのようにその後のプレーに活かされたか、今の自分にどう影響しているかを伺います。

 思うように勝てなかった中学時代を経て、オリンピック選手に成長した池田信太郎さん。現在、2児のパパとしてどのような習い事をさせたいと考えているのでしょうか。

前編:バドミントンは遊びのようなもの。サッカーを習いたくてもダメと言われて……。バドミントン元日本代表・池田信太郎(前編)

体格差、努力不足……好きなバドミントンで勝てなくなった

――小学校では強かったのに、中学校ではスランプを迎えてしまったということですが。

中学のころは反抗期でモチベーションが下がってしまったということもありましたし、また成長期ということで周りの選手と体格でも差がついてしまい、思うように勝てませんでした。技術よりも力がある選手が勝って、僕のような線が細い子はなかなか勝てないんです。自分なりに努力はしていたけど、小学校のときの感覚のまま「そこそこ行けるだろう」と思っていたのでだんだん負けるようになった。

――そこでバドミントンが嫌いにはならなかった?

バドミントン自体は好きでした。でも、自発的に練習するわけではなく、なにがなんでも強くなって上にのしあがってやるという気持ちもありませんでした。自発的に努力するようになったのは、高校に入ってからです。体格については、トレーニングや食事によってできる限り大きくなるよう努力しましたが、大学生くらいまでは体ができていませんでしたね。体格はスポーツ選手としてはあまり恵まれていると思いません。

――中学時代は思うような成績が残せなかったにも関わらず、バドミントンを高校でも続けたのはなぜですか?

中学のときの挫折がくやしかったんです。大した努力もしていなかったとはいえくやしかった。小学校は九州大会で3位。中学校になると九州でベスト4に入れば全国大会に行けるのですが、県で2位、九州で8位でした。全国大会に行くのが最低ラインだと自分では思っていたのに叶わず、ライバルたちは県外の強豪校に引き抜かれ、僕は地元の高校に進みました。もともと大会で上位に進出した実績のない高校だったのですが、同期に恵まれていい選手が揃っていました。「ここで強くなってみせよう」「一緒にインターハイで上位に行こう」と、モチベーションを維持して努力できました。

――「遊び」から挫折を経て「競技」という意識が高くなりスイッチが入ったわけですね。

入りましたね。言い訳っぽく聞こえるかもしれませんが、最初から1番というのは好きじゃない。2番3番から自分が1番に引き上げてやるという思いが原動力になるんです。やはり強豪校に比べるとコートの面数も少ないし、他の部との関係で体育館が使える時間が決まっていて、それ以外は外でトレーニングをしなければならないということもある。だからこそ、そうしたすべてが整った環境にいる選手に勝ったら気持ちがいいじゃないですか。個人競技の場合、勝った負けたは個人の責任。でも、インターハイには団体戦もあり、自分が勝つことでチームも勝つ。チームのために勝たなければという責任感も出てきました。

バドミントンを通して成長できた

――そのころもやはり親御さんからの期待が大きかった?

高校生、大学と成長するにつれ親の関与が薄くなりましたね。だからこそ返って自分自身で何をすべきか考えるようになった。高校では、限られた時間内でどういう練習をしなければいけないか、合理性、効率性などを考え、朝の練習の前に、自主的に5キロ走ってから練習メニューに参加するということもよくしていましたね。

思えば小さなころから家に帰ってもコーチの父親がいますし、バドミントンが当たり前にあったものなので、小中学生のころは「努力しなければならない」という意識が薄かったのかもしれません。姉ちゃんと弟(くまもと再春館製薬所バドミントンチーム監督・池田雄一さん)と3人きょうだいなのですが、弟はインターハイで三冠するくらい強くて。僕よりも弟への期待のほうが高くなった分、僕は自由にさせてもらえるようになりました。

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