インタビュー
2018年3月5日

小学生のころはサッカーよりも体操、夢はオリンピック金メダリストでした。元サッカー日本代表・福西崇史(前編)│子どもの頃こんな習い事してました #10 (3/3)

覚悟を持って選んだサッカーだからやめようと思ったことはない

――親御さんは福西さんの夢に対してどうサポートしていましたか。

直接、親に自分の夢を語ることはなかったけれど、体操もサッカーも応援してくれていました。体操で選抜チームに選ばれると県外まで練習に行かないといけないんですが、親が車で送り迎えをしてくれましたし、家では毎日ストレッチに付き合ってくれました。

特に何かアドバイスするということはないんですが、ただただ応援です。思春期くらいになると親が大会を見に来るのは正直あまりうれしいとは感じませんでしたが、そこまで前に出てくる親でもないので、パッと見に来て何も言わずに帰っていたという感じです。

――愛媛県内のサッカー強豪校・新居浜工業高校へ進学しました。進路を決めるときの親御さんのアドバイスは?

母は「学業をもっとがんばりなさい」とある程度は言っていましたし、高校のときにプロにスカウトされたときも、「大学に行ってからでいいんじゃない?」と言っていましたが、父は「お前が決めろ、お前の人生だ」と言っていましたね。父親はあまりガミガミ言うタイプではないんです。けっこう自由にさせてくれていました。

――それはお父さんから、自分で決めたことは一生懸命にやり通す子だ、ラクなほうに流れる子ではないと信頼されていたということでしょうか。

まあ、高校では遊んでいる子も多かったのでラクな方への誘惑は多少ありましたけど、自分で覚悟を持って進路を選んだわけですから、サッカーをやめようということは一切考えずきちんと練習していました。それは親の教育のおかげでもあるかもしれないですね。

――そのしっかりした性格は幼いころからですか。

しっかりはしていないです。むしろ兄貴のほうがしっかりしています。僕は次男体質で要領がいいんですよ。逆に、兄はずっと親父に「長男なんだから、しっかりしろ」と怒られていました。いまだに申し訳ないと思っているのは、僕が仕掛けたケンカで兄が必ず怒られていたこと。本当に悪かったなと思っています。

兄は習っていた体操も親に反抗する形でやめてしまったし、思春期にもかなり反発していたので僕よりも大変だったんじゃないかな。その分、僕は放っておかれた……というわけじゃないけど、自由にできたんですよね。

兄とは大人になってからのほうがよく話します。実家の近くに住んで親のこともみてくれていますし、「自分が福西家を継ぐ」と言ってくれているので、本当に感謝しています。

▼後編はこちら

幼いころからボールを蹴ってきた“エリート”ではない、だからこそ器械体操の経験が自分の武器に。元サッカー日本代表・福西崇史(後編)【子どもの頃こんな習い事してました #10】 | 子育て×スポーツ『MELOS』

[プロフィール]
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年生まれ。愛媛県出身。サッカー解説者、指導者。小学4年生のときにサッカーを始め、愛媛県立新居浜工業高校在学時に高校総体に出場。高校卒業後ジュビロ磐田に入団、総合的に優れた身体能力でジュビロ黄金期を支えた。その後、FC東京、東京ヴェルディで活躍。1999、2001、2002、2003年、Jリーグベストイレブン選出。2002年、2006年に日本代表選手としてFIFAワールドカップ出場。2009年現役引退、Jリーグの功労選手賞を受賞。2016年3月、Jリーグの特任理事に就任。

<Text:安楽由紀子/Edit:丸山美紀(アート・サプライ)/Photo:玉井幹郎>

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