インタビュー
2018年6月4日

スケート、空手、水泳、習字、そろばん、ピアノ。学校の先生を目指していろいろチャレンジしました。元スピードスケート日本代表・大菅小百合(前編)│子どもの頃こんな習い事してました #13 (2/2)

――最終的にスケートが残ったんですね。

そうですね。結局、あまり力を入れていなかったスケートが最後まで残りました。中学に入ると、夏はソフトボール部、冬はスケート部のかけもち。部活と習い事の両立は厳しかったのですが、習字とピアノは中学3年まで続けました。一応、モーツァルトの「トルコ行進曲」程度は弾けるようになりましたし、習字も7段で行書や草書も書けます。どちらも高校に入り、地元を離れることになったのでやめることになりました。

「学校の先生になりたい」という夢はずっと持っていて、中学では塾に入って勉強もがんばりつつ、習い事もがんばりながら、土・日は大会……という予定がびっちり詰まった日々を過ごしていました。兄妹3人とも同じような感じでしたけど、一番習い事が多かったのは私です。

――ご両親のサポートがあったからこそ続けられたのではないかと思います。

そうですね。両親とも協力的でした。家が街から離れていたので、習い事はもちろん学校の行き帰りも車で送り迎えしてもらっていました。スケートリンクも、今は機械があるんですが、当時は少年団の保護者たちが交代で氷の整備をしていたので、夜、マイナス20度近くになるなか、お父さんが水を撒いて氷を張る作業をしてくれていました。だから私も「中途半端ではやめれない」という思いは常にありましたね。

「1番になりたい」という気持ちはおばあちゃんが育てた

――スケートについて「ここはこうしたほうがいい」といった具体的なアドバイスはありましたか?

大会のあと「がんばったね」くらいはありましたが、細かい指摘はありませんでした。ただ、こっそり練習を見に来て少しでもサボっていようものなら、「もう送り迎えしないよ」と怒鳴られることはありました。

大会に関しては、おばあちゃんが勝負ごとが大好きで、よく「勝ったらお小遣いをあげる」と言っていましたね。大きくなってきたら自分から「1位獲ったらこれほしい」と持ちかけたりすることも。運動会の100メートル走でも「女子で1位ならお小遣いをあげる」と言うので、ふつうは「たかが運動会」だと思うんですけど、私は一生懸命自主練をしていたんですよ。負けず嫌いで何事に対しても1番になりたいし、目標に向かって努力もする。それは、おばあちゃんがいつも目標を設定してくれたことが影響していると思います。

――気弱になったり「どうせ無理だから……」とあきらめることは?

小さいころはまったくなかったですね。成長するにつれて、ものごとがわかってくるようになって、プレッシャーを感じるようになりましたけど、地元にいたときは「絶対負けない」という自信がありました。

――その強い精神力はどのように鍛えたんですか。

いろんなことにチャレンジして自然と身についたのだと思います。たとえ失敗して心が折れても、乗り越えたらさらに強くなれる。私、運動会の100メートル走は小学1年生から中学3年生までずっと女子1位だったんです。マラソン大会もずっと1位だったのですが、中学3年生のときに初めて陸上部の女子に負けてしまって涙が出ました。余裕のつもりだったわけじゃないですけど、トレーニングもしていたし大丈夫だろうと思っていたんですね。この負けをきっかけに準備、努力はどれだけやっても大切だということに気づきました。たかが校内のマラソン大会ですが、あの悔しさは今でも覚えています。

[プロフィール]
大菅小百合(おおすが・さゆり)
1980年生まれ。北海道出身。2002年ソルトレイクシティオリンピックのスピードスケート女子500m、1000mに出場。トレーニングの一環として行っていた自転車競技・トラックレースにおいても、2003年世界自転車選手権B大会500mタイムトライアルで優勝するなど実績を残し、2004年には同種目でアテネオリンピックに出場。2006年にはトリノオリンピックのスピードスケート女子500mに出場し、3季連続のオリンピック出場を果たした。2011年に現役引退。2014年まで大和ハウススケート部でコーチを務める。元・陸上競技選手で、現在はプロスプリントコーチとして活躍する秋本真吾さんと2014年に入籍。2017年第一子を出産。

<Text:安楽由紀子/Edit:丸山美紀(アート・サプライ)/Photo:玉井幹郎>

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