視覚障がい者マラソンの女王と元実業団ランナーの邂逅。思い出は、“山登り”。マラソン道下美里×ガイドランナー河口恵(前編)│わたしと相棒~パラアスリートのTOKYO2020~ (1/3)
東京2020パラリンピックを目指すアスリートの傍らには、彼ら彼女らをサポートするヒト・モノの存在がある。双方が合わさって生まれるものとは何か。連載「わたしと相棒〜パラアスリートのTOKYO2020〜」では、両者の対話を通してパラスポーツのリアリティを探る。
2016年のリオパラリンピックで初採用された視覚障がい者の女子マラソン。記念すべき第1回で銀メダルに輝いた道下美里選手(三井住友海上所属/T12/視覚障がいクラス)。リオでのメダル獲得をはじめ、ロンドンでのWorld Para Athletics Marathon World Cupでは2017年、2018年と連覇し、2017年冬の防府読売マラソンでは2時間56分14秒の世界新記録をマークした。
背景にあるのは、豊富な練習量。『チーム道下』と呼ばれるさまざまなサポーターたちの協力を得て、彼女は走り続けている。その中で今回は、実業団選手を引退後、ガイドとしてチームに加わった河口恵さんとのトレーニングの日々について伺った。
「目が不自由だと走れない、と思い込んでいたんです」
――普段の練習は週に何回実施しているのでしょうか。
道下:ほぼ毎日ですね。でも、脚の状態によって痛みがある時は臨機応変に休みを入れるようにしています。練習は、福岡県の大濠公園をメインのトレーニング場所としていますね。一週間の練習を約12人の方に、伴走のサポートをしていただいています。
――『チーム道下』ですね。メンバーは100人と聞いています。
道下:正式な人数は分かりませんが、リオ大会までに、伴走ロープを持っていただいたことのある方は100人を超えていました。その他にも、伴走だけじゃなく、給水や移動のサポートをして下さる方もいます。
――すごいですね。競技歴の長さにも比例しているのでしょうか。
道下:そうですね。私はどちらかというと、休まないで走る選手なので。
――道下さんの障がいの程度と経緯を、改めて伺えますか?
道下:見え方は、右目はまったく見えていなくて左目は光と色を感じる程度、視力的には0.01弱ですね。強い光が苦手で、薄暗くなると隣にいる人の輪郭がうっすらつかめる程度です。中学2年の頃に、右目の手術をして視力を失ったのですが、当時は原因が分かりませんでした。23歳くらいの時に病名が分かって、「膠様滴状角膜ジストロフィー」という遺伝性で進行性の病気と分かりました。左目もその頃に発症して、徐々に視力が落ちていますね。
――走り始めたきっかけは。
道下:当時の私は、「目が不自由だと走れない」と思い込んでいたんです。ちょっと外に出てランニングしようと思いたっても、できないじゃないですか。盲学校に入ってから、体育の授業で、「目が不自由でも、伴走者をつけたら走れます。または『音源走』といって音の鳴る方向に向かって走るという方法もありますよ」と教えてもらって。当時、目が不自由になって一人で運動する機会も少なく、ストレスから食に走ってしまっていたので、ダイエットも兼ねて、放課後にグラウンドを走り始めたのがきっかけです。走っていたら、先生が見てくれるようになって、「大会があるけど出場してみない?」と、声を掛けていただきました。
――最初はマラソンではなく、トラック競技だったということですが。
道下:そうですね。2003年頃から陸上競技を始めて、初マラソンは、2008年に始まった『下関海響マラソン』なので、トラック競技をメインで取り組んでいたのは4~5年程でしょうか。