インタビュー
2017年11月24日

やっぱりリーダーは人気を集めて、お客さんを呼ぶことをやらなくてはいけない。ブル中野氏(前編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #5】 (1/3)

 鍛えあげた肉体をぶつけあって観客を沸かせる格闘技。中でも女性による女子プロレスは、1970年代のビューティ・ペア、1980年代のクラッシュ・ギャルズといったアイドルが生まれたことで一大ブームを引き起こしました。そのクラッシュ・ギャルズの敵役として登場したのがブル中野さんです。

 奇抜な髪型や化粧だけでなく、100kgを超える身体を活かした数々の技や豪快なファイトスタイルによって、1990年代にヒールの女帝として君臨しました。現在は東京の中野でバーを経営するブルさんに、栄光の陰に隠された苦労と決断についてお訊きしました。

後編はこちら

プロレスラーではなく、人間として、女として初めて自信が持てた。ブル中野氏(後編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #5】 | ビジネス×スポーツ『MELOS』

女子プロレスの現実はドロドロしたイジメの世界

― 女子プロレスの世界に入ったきっかけは何ですか?

 もともとは小学校5年生のときにアントニオ猪木さんを見て、プロレスファンになりました。それを母が見て、プロレス好きなら自分でやりなさいと、中学校1年のときに勝手にオーディション出しちゃって(笑)。

 で、そのオーディションに受かったので、私の人生は中2、中3のあと2年間しか遊べないなと思って、ケンカとかしょっちゅうやってました。当時はドラマの「積木くずし」とかのツッパリブーム。学校は1学年15クラスまであるマンモス校で、周りはスケバンか不良だし、もうぐちゃぐちゃでした。

― 1983年、全日本女子プロレスに入団します。

 テレビの中では華やかな夢の世界でしたが、実際に入ってみると、練習も上下関係もほんと地獄でした。いじめやシゴキがあって、こんなに汚いものかと(笑)。同期で6〜8人入って、半分は辞めていきました。でも、女子プロレスの団体が1つしかない時代ですから、どんなことがあっても辞められない。最後は故郷に錦を飾る根性で頑張りました。

― 修行時代は何が一番苦しかったですか?

 全寮制なのですが、はじめは先輩が怖くて怖くて。怒られたり殴られるので、ビクビクしながら生活してました。朝から晩までは働かせられて練習させられて、寮に帰ってきたらヘトヘト。昔はコンビニなんてなくて、巡業が終わってからリングを片付けて、先輩の荷物を持ってバスで帰ってきたら、スーパーも閉まっている。だから夜は買い置きのカップ麺ぐらいしか食べられない。みんなみるみる痩せていきました。人気ある先輩たちはファンから差し入れをもらって、バスの中で食べているので、その食べ残しを食べたりね。

 あとね、先輩に可愛がられている子は食事に誘ってもらえるんですよ。可愛がられる人っていうのは、やっぱりおべっかがうまい。でも、なんて言うんだろうな、たぶんスター性がない人なんです。いじめられるのは、何かが目立って憎たらしいと思われるから。「もしかしてコイツは人気出るかも」と思われた子は、デビューする前に潰されましたね。

― 3度目のプロテストに合格して、プロレスラーとしてのスタートラインに立てました。

 私は柔道をやっていたのでスパーリングとか寝技は強いんですけど、走りや縄跳びとかの基礎体力がなくて。でも、1年経つと後輩が入ってきますから、少しずつ仕事が分担されて、自分の時間ができてくる。そうすると自分の練習ができるし、試合に気持ちが入るようになりました。

ヒール役を受け入れて初めて“プロレスラー”になれた

― そんな中、悪役のダンプ松本さんから極悪同盟に誘われます。

 私は入りたくなかったんです。昔の悪役って、本当に憎まれるだけの役割だったので。私は中学校でさんざん不良をやっていたので、母親には「プロレスでは悪いほうに絶対いっちゃダメ」と、いつも言われていました。

 でも、ダンプさんに「お前はブスでデブなんだから、悪役に入らなかったら生きていく道はないんだぞ」って、毎日ずーっと言われて。先輩の言うことは絶対でしたから、ここで生き残るためには、最後は「はい」と言うしかなかった。

― ヒール転向には会社の意向もあったのですか?

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