インタビュー
2017年11月24日

やっぱりリーダーは人気を集めて、お客さんを呼ぶことをやらなくてはいけない。ブル中野氏(前編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #5】 (3/3)

 いや、その気はまったくありませんでした。ダンプさんが引退されるちょっと前、一緒に芸能界に行こうと誘われていたんですが、また最初は断りきれなくて。でも、最終的に「私はプロレスやっていきます」と言った瞬間に、ダンプさんとは決別することになりました。

 それまではダンプさんがいたので、私は後輩に対してなんの責任がなかった。でも、ダンプさんが辞めたときに「みんなはどうする?」って聞いたら、「一緒に付いていきます」と言ってくれた子がいて、それで作ったのが獄門党なんです。結局、ダンプさんの派閥の長を私がやるしかなかった。でも、自分が守らないといけないものができたので、気持ち的には余計に強くなれたと思います。

― その後、新しい技を生み出したりデスマッチ敢行など、従来の女子プロレスのイメージを広げていきました。

 昔はヒール対ベビーフェイスという形だけで、会社には「お前たちは引き立て役なんだから絶対目立つな」といつも言われてました。それが悔しくて。ダンプさんは悪役のイメージを変えたけど、私はさらに凶器ではなくて技、レスリングとして闘っていこうと思ったんです。悪役でもレスラーなんだ、悪役でも人を感動させる試合が絶対できる! 年末のベストバウト賞やMVPをヒールで初めて獲ってやる! というのが私の目標でした。

 当時はまだ、ヒール同士がメインイベントを張るなんて考えられなかった。それがヒールでもお金になるんだとわかったら、それまでさんざんバカにしていた会社も、だんだん手の平を返してきて(笑)。やっぱりリーダーは人気を集めて、お客さんを呼ぶことをやらなくてはいけないと思いましたね。

大ケガによる引退、そして絶望

― 1993年にアメリカに渡って、WWF(現WWE)に参戦します。アメリカのリングはいかがでした?

 会場は大きいし、何をやってもお客さんが湧くし、エンターテイメントとして楽しんでいるという感じでしたね。考え方も試合のやり方もまったく変えました。日本では真剣勝負だったので、私にしたら楽チンだし、お金の面では良かったですけど(笑)。プロレスを楽しめたのは初めての経験でした。

― しかし、1997年に左靭帯を2本切る大ケガをしてしまいます。

 体重があったので、支えきれなくなっていたんです。ケガしたことで、それまで動けたものが動けなくなる。試合中に、今ここがお客さんを沸かせるところだと思っても、ほんの1秒、0.1秒とかタイミングがズレちゃうんですよ。これはプロとしてはダメだなと思い始めて、それが引退するきっかけになりました。

― 引退についてどなたかに相談しましたか?

 いえ、誰にもしてないです。15歳からずっとやって来て、このためだけに生きて来たので、プロレス以外何もできないし、何もやりたくない。明日からどうしよう。自分の中でプロレス辞めようと決めたとき、妹とお父さんとお母さんがいなかったら、ほんとに自殺していたと思います。

後編はこちら

プロレスラーではなく、人間として、女として初めて自信が持てた。ブル中野氏(後編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #5】 | ビジネス×スポーツ『MELOS』

[プロフィール]
ブル中野(ぶる・なかの)
1968年1月8日生まれ。埼玉県川口市出身。本名は青木恵子。1983年、全日本女子プロレスに入門。1985年、ダンプ松本に誘われて極悪同盟に参加、ヒールに転向する。1988年、獄門党を結成。1990年にはWWWA世界シングル王者を獲得、名実ともにトップレスラーとして君臨する。1997年、左靭帯のケガでプロレスを引退。2010年、キックボクサーでムエタイ選手の青木大輔と結婚。現在、GIRS婆BAR「中野のぶるちゃん」を経営。タレント、プロレス解説者としても活躍中。
【ブル中野オフィシャルブログ「元祖ぶるママ」】https://ameblo.jp/bullchan-0108/
【GIRS婆BAR 中野のぶるちゃん ホームページ】http://victory-inc.co.jp/bullchan/

▶格闘技でストレス発散! 全国の格闘技・武道教室を見る

<Text:渡辺幸雄+アート・サプライ/Photo:小島マサヒロ>

1 2 3