インタビュー
2017年11月24日

やっぱりリーダーは人気を集めて、お客さんを呼ぶことをやらなくてはいけない。ブル中野氏(前編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #5】 (2/3)

 年の始めにマラソン大会があって、そのときに配られるジャージが、赤をもらった人はベビーフェイス(善玉役)、紺色をもらった人はヒール(悪役)と決まっていたんです。で、2年目のときに私がもらったのは紺色。ああ、そういう方向に行くのかとは思ってました。

― ヒールになってからは、半分剃ったモヒカンがトレードマークでした。

 はじめは無理やり化粧させられて、凶器を持たせられて、すごいしごかれました。でも、ぜんぜん吹っ切れなくて、どうにか悪いことをしたくないというのが見え見え。だからダンプさんが、「お前はここで本当に気持ちを決めなくちゃいけない!」って、髪を刈られたんですね。しかも半分剃ったとこで、「お前は半人前だから半ハゲでいい」と、あの髪型になった。

― それで吹っ切れました?

 はい。これで「私の生きる時間はあのリングの中だけでいい」と思うようになりました。そのときにやっと、私はプロレスラーになったんだと思います。先輩たちを全員抜かして、絶対日本一になってやる! と誓いました。

― ヒールになって、闘い方とかに変化はありましたか?

 はじめはダンプさんの脇役ですから、私はやられてばかり。でも、このままではやられ役で終わっちゃうと思ったんで、ちょっとずつ先輩たちに反抗していくようにしました。するとあるとき、相手の目が一瞬ひるんだのを見たんです。それから向こうも一目置くようになったと思います。

 そのうち、試合の流れが見えて、相手が何を考えているのかもわかるようになる。お客さんが今何を欲しがっているのか、ここの会場では何がウケるのかとか、全部把握できるようになると、今度は自分に何が足りないのか、何を磨けばいいのか、そういうことを考えるようになりました。

 どんどん新しい技を考えて使っていくと、プロレス雑誌で取り上げてくれますよね。当時は明星とか平凡とかアイドル雑誌がたくさんあって、クラッシュ・ギャルズさんとかダンプさんはいっぱい出ていた。それももちろんうれしいですけど、プロレスの雑誌で取り上げられるのはプロレスラーとして認められたわけで、その過程はすごく楽しかったです。

実力を追求して、従来のヒールのイメージを覆す

― 1988年、ダンプ松本さんが一時引退することになって、ご自分で獄門党というグループを作ります。これはダンプさんの跡を継ぐ気持ちがあったのですか?

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