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2018年1月9日

「僕らには『キン肉マン』があるやないか!」ゆでたまご・嶋田隆司先生が語る『キン肉マン』(前編)│熱血!スポーツ漫画制作秘話 #3 (2/3)

当時チャンピオンに『まんが道」の「あすなろ編」が連載されてて、僕の好きな藤子不二雄先生がふたりでひとりというのがわかったんですよ。満賀くんのところに才野くんが引っ越してきて、合作を始めるというところに自分たちを重ねたのもあったかもしれませんけど、それおもろいなぁ思って、最初に映画の「大脱走」をふたりで描いたんです。それから交換漫画じゃないけど、たとえば最初僕が3ページ描いて相棒に渡す、それを見て次の3ページを相棒が描いて……みたいな。相手が何を描いてくるかわからないから常に行き当たりばったりで(笑)。

——漫画を描く力が鍛えられそうですね。

とにかく相棒に負けないくらい面白いものを描こうとして、相棒もそれに負けないようにして。常に回覧されてるから読者の反応がダイレクトに伝わってくるので(笑)、競い合ってましたね。そのやりとりがすごく楽しかったし、今のキン肉マンも原型と言えるかもしれないですね。

▲「回覧された漫画、なかなか返ってきませんでしたね(笑)」

漫画家になれるチャンスは「3年間しかなかった」

——そうして、ゆでたまごとして同じ道を歩み始め、やがて高校生でジャンプデビューを果たします。

うちの家も相棒の家もそんなに裕福じゃなかったので、高校卒業したら働かなければいけなかったんです。だから漫画家になれるチャンスは高校の3年間しかありませんでした。その間、ジャンプに投稿してたんですけど毎回選外。でもそのときに集英社の中野和雄さんという人から電話がかかってきたんです。

——「アデランスの中野さん」でおなじみの、あの中野さんですね。

「君たち面白いね、漫画家にならないか?」っていうから「そりゃなりたいですよ!」って話じゃないですか。そしたら「いいネーム描けたら送ってね」って言ってくれたんですけど、当時中野さんは月刊少年ジャンプの編集者で、僕たちは週刊少年ジャンプでやりたかったので、正直「この人から逃れたいな」と思ってたんです(笑)。

——せっかく編集者に目をかけられたのに(笑)。

高校生活の最後、これを逃したらもう漫画家になれない、さあ何を描くかっていう話になったときに、僕たちにはふたりを結びつけた「キン肉マン」があるじゃないかと。それであれを描こうという話になりました。描き上げたあとは、中野さんには送らず赤塚賞に出したんですよね(笑)。そうしたら中野さんから電話かかってきて、「なんだよ、これ! たぶん賞取れるぞ!」って言われて。まあ、実際は準入選でしたけどね。100万円もらえるかと思いきや、賞金は20万円でした。

——それでも高校3年生には大金ですよね。

冬休みを利用して受賞パーティーにいくんですけど、まあ赤塚賞のパーティーってすごくド派手なんですよ。芸能人や歌手もたくさんいて、抽選の商品もすごく豪華。そんなところにきたらもう一度ここに戻ってきたいなと思うわけじゃないですか。

ただ、僕らはまさか賞を取れるとは思ってなかったんですよね。しかも時期は卒業間近の12月で、ふたりとも就職が決まっていたんです。僕がカーテンレールの会社で相棒がデザイン会社かな? そしたら東京から中野さんと当時の編集長だった西村繁男さんが来てくれて、学校と親に話してくれたんですよ。漫画でいくと決まってからは、一度の読み切りを経て連載が決まって、3学期はずーっとキン肉マンを書き溜めてました。

——デビュー前の高校生のために編集長が直々に交渉に来てくれるとは、とんでもない話ですね。

それでもし漫画家としてダメになったら、東京で就職の世話してくるって言ってくれて。ほんますごい話ですよ。でもあとあと聞いたら、赤塚賞取ったときのキン肉マンが雑誌に載ったときの人気投票が、当時15本中5〜6位だったらしいんですよ。ふつう新人の読み切りなんて最下位が当たり前で、5位とかあり得ない。だから彼らはキン肉マンが人気出るっていうことわかってたんですよね。それに、当時のジャンプはギャグ漫画が弱くて、子どもの読者を取り込みたいという編集方針もあったので、キン肉マンはうってつけだったんですよね。

——もし仮に読みが外れてキン肉マンの人気が出なかったとき、おふたりをどこに就職させるつもりだったんでしょう?

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