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2018年7月11日

マラソンをやめた男がマラソン芸人になるまで。モノマネ芸人・萩原拓也のランニング人生(前編) (2/3)

「プラウドブルー」に憧れて神奈川大へ

――その後は大学でも陸上の道を進むことになりますが、神奈川大学を選んだきっかけはあったのでしょうか?

高校の陸上部の1個上の先輩が神奈川大学を希望していて、その時に初めて大後栄治監督の存在や、箱根駅伝で2連覇の実績(1996~97年)があることを知ったんです。特に「プラウドブルー」という独特のユニフォームカラーに憧れたんですよね。

当時の神奈川大の入部条件が、5000m「15分10秒」と「地区大会(東北大会)進出」。どちらもクリアしていたんですけど、高校の監督に「これだけじゃアピールが足りないから、直接(大後監督に)挨拶してこい」と言われ、青森で合宿していた神奈川大に突撃して「練習に参加させてください!」と大後監督に直談判したんです。

――実際に憧れの神奈川大へ入学した時の心境はいかがでしたか?

当時の神奈川大は強かったですから、入学後は練習についていくのが大変でした。でも1年目はわりと走れていて、夏合宿(選抜)にも連れていってもらったほどです。2002年の箱根駅伝で往路優勝(※)した時のメンバーである同期の島田健一郎(現ユニクロ女子陸上競技部コーチ)と同じ練習をこなせていましたから。

(※往路優勝:初日をトップで終えること。箱根・芦ノ湖がゴール)

――高校時代の自己ベストが5000m15分台ということを考えると、すごい急成長ですね!

「俺、箱根走れるかも??」と自信がついたのですが、9月後半の記録会直前で右ひざを故障してしまい、結局大学3年生の終わりまでほとんど走ることはできませんでした。右ひざの故障が癒えた後はふくらはぎに力が入らなくなって、それが2年間続いたんです。

最近ランナーの間で「ぬけぬけ病」(※主に片脚に力が入らなくなる症状を指す)というのが話題となっていますが、まさに同じ症状でしたね。8000mのペース走をやっていても5000mで力が入らなくなる。どこも痛くないのに走れないという、もどかしい気持ちでした。このせいで、2年生の後半から3年生の前半まではめちゃくちゃ自暴自棄になりました。21時の門限を破るなど、とにかく腐っていましたね(笑)。

▲胸の文字は設楽悠太選手の所属先をもじった「NONDA」

――それでも、最終的には大学4年時に自己ベスト(5000m14分38秒、10000m29分48秒)を出されています。どんな風に立ち直ったのでしょうか?

3年生の終わりくらいに、1度、大後監督に「辞めます」と言いに行ったんですよね。その時は「やっていれば何かが見えてくるから」と止められただけだったのですが、ちょうどその頃、学年ミーティングに珍しく大後さんが現れて、「お前らの代で箱根を優勝したいから、そのつもりで頼む!」と皆の前で頭を下げられたんですよね。さすがに、「これはがんばらないとダメだな」と思いましたね。

――監督に頭を下げられては、がんばるしかないですよね。

4年生になると、「ぬけぬけ病」ともうまく付き合えるようになり、夏の選抜合宿にも連れていってもらいました。同期の下里和義(現・プレス工業ヘッドコーチ)を中心に「箱根で優勝できるんじゃないかな」と思うほど、チームはいい雰囲気だったんです。結果的には8位で終わりましたが、アンカーに渡るまでは3位争いをするほど、上位で戦うことができたんです。だから仲間内では「幻の3位だったな」って話しています(笑)。

――「ぬけぬけ病」はどんな風に改善されたのでしょうか。

例えばペース走で5000mを過ぎたら、ちょっとリズムを変えて走ってみるとか。そういうちょっとした工夫を施すことで、少しずつ練習を積めるようになりました。

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