インタビュー
2018年1月26日

戦力外通告を受けて引退、そして起業家へ。小杉陽太氏(前編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #6】 (3/3)

 プロ野球って、みんなお山の大将というか、高校野球や実業団で一番だった人が来るじゃないですか。初めてキャンプに入って、プロのブルペンを見た時、三浦(大輔)さんがいて、工藤(公康)さんもいて、「これはやばいな。やっていけるかな」と思いました。現役時代にやっていけると思ったのは1回もないかもしれない。常に不安があったから練習できたのでしょう。

― 2009年にはプロ初登板で初先発も果たしました。監督やコーチからはどのようなアドバイスをもらいましたか?

 中畑(清)監督にはすごく感謝しています。2012年にデニー(友利)さんが投手コーチで来られて、それまでかわすようなピッチングだったのですが、「真っ直ぐのいい球を持っているのだから、逃げずに真っ直ぐ主体で行け」と言われました。

 僕はフォアボールをけっこう出してて、もちろん自分でも出したくて投げているんじゃないんですけど、「それは姿勢が逃げているからだ」と厳しく言われました。デニーさんにはマウンドでよくどつかれましたよ(笑)。

― ピッチングに対する考え方ですね。

 そこで考えが変わりました。向かっていく気持ちですね。もともとかわせるようなコントロールはないですし、変化球も持ってないので、だったらまずストレートで攻めていこうと。そのためにはトレーニングをしてスピードを上げて、最後の頃は150kmぐらい出るようになりました。

― どういうところに注意して練習したのですか?

 最初はウエイトトレーニングで身体をでかくしていました。やりたくなるんですよね、プロに入ると(笑)。でも、肩の手術をしてからは止めました。筋肉を付けても、僕は自分の身体をちゃんと扱えてなかったんです。

 僕は体型が細いですし、タイプ的にパワー系ではなくて瞬発系なんだと気がつきました。たとえば、西武ライオンズの岸孝之さんや西口文也さんが、身体の線は細くてもあれだけできているのは、身体の使い方がすごく上手いからです。

 だからトレーナーの人と話して、入団当時の身体にもう一度戻して、身体の使い方やキレを取り戻そうとしました。トレーニングではパワーを付けるというより、初動負荷に重点において、身体の細かいところを鍛えるように。あとはケガしないように、肩やそれ以外のケアもしっかりする。もちろん食事にも気をつけて取り組んでいたら、球も変わってきましたし、ケガをしなくなりました。

― その後、一軍と二軍を行ったり来たりしましたが、2017年、ついに戦力外通告を受けます。体力的な限界は感じていましたか?

 いえ。結局、最後の登板になった試合で、家族を球場に呼んでいたのですが、普通に149kmぐらい出てました。別に身体に痛みも痒みもないし、自分でも体力的にはぜんぜんできると思ってました。

 現役引退することになった時、家族を含め、周りの方々はみんな納得していなかったですね。パフォーマンスは落ちていないし、まだできると言ってくれる人が多かった。球団の方にも「球団職員で残っていただけるんですよね」って言われましたし。

 でも、僕の心の中では辞めることが固まっていたんです。

▼後編に続く!

人と人の出会いや絆を大切にしたイベントを作っていきたい。小杉陽太氏(後編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #6】 | ビジネス×スポーツ『MELOS』

[プロフィール]
小杉陽太(こすぎ・ようた)
1985年12月8日生まれ、東京都江東区出身。小学校6年生で少年野球の東陽フェニックスに入団。中学時代は江東ライオンズに所属。二松學舍大学附属高等学校から亜細亜大学に進学するも、3年生で退学。2007年、JR東日本に入社し、都市対抗野球大会などで活躍。2008年、ドラフト会議で横浜ベイスターズに5巡目に指名される。一軍昇格、二軍降格を繰り返すも、2016年には開幕一軍入りを果たす。2017年、戦力外通告を受け、10月に現役引退を表明。同年11月、株式会社l’unique(リュニック)を設立。現在、日本かしこめし協会理事、江東ライオンズのピッチングアドバイザーにも就任している。
【ホームページ】l’unique(リュニック) http://lunique.co.jp

<Text:渡辺幸雄+アート・サプライ/Photo:小島マサヒロ>

1 2 3