インタビュー
2018年1月26日

戦力外通告を受けて引退、そして起業家へ。小杉陽太氏(前編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #6】 (2/3)

 いや、まったくしてなかったです。で、最初は中学校の野球チームで練習をさせてもらったんですけど、そこの監督に「ここでやってても先がないから、本当に野球をやりたいのだったら、高校の野球部の監督さんに頭を下げて練習させてもらいなさい」と言われたんですね。

 大学を辞めてから、高校の市原監督には一度も会っていませんでした。逃げていたから。会うのはすごくしんどかった。意を決して会いに行ったら、最初は完全に無視です。

 当たり前ですよね。今までなんとかしてくれようとしていたのに、勝手にいなくなって、また野球やりたくなったから練習させてくれなんて、都合がいいじゃないですか。でも、ここで逃げ出したらまた同じことだと思ったので、毎日、選手が来る前にグラウンドの整備をしたり、バッティングのピッチャーやったり、練習というより現役選手の手伝いをやってました。

 それを2週間ぐらい続けていたら、監督が「本気で野球やりたいんだったら、進路を探してやる」と声をかけてくれたんです。練習させてもらって、ほんとうれしかった。その時に「しっかりやらなければダメだ」と、もう腹を決めました。

リタイアした一投手を探し出した実業団監督の熱意

― それで2007年に実業団のJR東日本に入団されますが、その経緯は?

 これも奇跡のような話なんですよ。亜細亜大学の時にJR東日本とはよく試合をしていて、僕は何試合か抑えていたんですね。それでJRの堀井監督が覚えてくれて、「プロに行かなければ、うちで取ろう」と決めていたらしいんです。

 で、3年生になったら、肝心の僕がいない。もう辞めたと聞いたので、いろんな人づてに「小杉は何をやっているんだ」と探したら、高校で練習していることが分かって、市原監督に「観に行っていいですか?」と電話をくれたんです。

 それで堀井監督がいらっしゃって、「ピッチング見たいから、ブルペンで投げてくれ」と言われたので3球ぐらい投げたら、「あ、もういいよ」って言うんですよ。「え?」と思ったら、「明日から来てくれ」と(笑)。JR東日本にも亜細亜大学の先輩たちがいっぱいいたのですが、皆さん優しく迎えてくれました。

― 奇跡的ですよね。頭を下げて高校で練習していなかったら、堀井監督とも再会できなかったかもしれない。

 そうですね。小学校からすべて、大切なタイミングでいろんな方との出会いがあって、引っ張ってもらった。まさに野球をさせてもらったという感じです。

ピッチングに対する考えを変えたデニー投手コーチの鬼指導

― そして、2008年のドラフト会議で横浜ベイスターズに5位指名され、いよいよプロ野球にデビューします。実際に目にしたプロ野球の世界はいかがでしたか?

1 2 3