いつかは“監督”として球界に。山﨑武司氏(後編)【元プロアスリートに学ぶ、ビジネスの決断力 #3】
捕手を辞め、ポジションをコンバートしてから快進撃を続けた山﨑武司氏。しかし、他球団への移籍をきっかけに歯車は大きく狂い、引退を決断しました。
《前編》
・「もう野球は辞めた」。移籍を経て失った、野球への情熱。山﨑武司氏(前編)
後編では、一度野球を辞めた山﨑氏が、第二の野球人生で華麗に復活するまでのプロセス、そして引退後の今に至るまでのエピソードを紹介します。
移籍後に空回り、現役を退く決断を下す
--オリックスを退団されて、球界から出る決断を下したということですが、その後のビジョンはあったのでしょうか。
球界に残ってコーチをやったり、他球団で現役を続けるということはまったく考えませんでした。世間から見れば、私は「やらかして」球団から放出された身ですから、業界内で生きて行くのは難しいだろうと。ならばしばらくは好きなことをやって生きて行くのも悪くないと思っていました。
プロアスリートの多くの方がそうであるように、私もまた青春時代のほとんどの時間を野球に捧げてきたので、その時にできなかったことをやろうと思い、別に就職活動をするわけでもなく、家族で旅行へ行ってバカンスを楽しんだり、友人と遊んだりというように、ひたすら遊んでいました。
--野球に対する思いはまったくなくなったということでしょうか。
子どもに言われてちょっと考えたりはしましたけどね。毎日家にいるわけですから、子どもが言うんですよ。「パパ、何で家にいるの? もう野球やらないの?」と。そこでいろいろと思うところはあったのですが、「もうパパは野球やらん」と。そんなタイミングで、不意に新球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生したんですね。
--創設時にお声がけがあったと。
それも実は逸話があって。まず楽天に入団するきっかけとなったのは、引退した時の日本シリーズで起きた、小さな「ズレ」からなんです。その時私は東海ラジオで日本シリーズのコメンテーターとしてゲストで呼ばれていたのですが、たまたま球場に楽天の初代監督に就任した田尾(安志)さんがいらっしゃったんです。ご存知の通り、田尾さんはドラゴンズの先輩でもありますから、ラジオの名物実況をやっていた方から、挨拶に行った方がいいんじゃないかということで、何気なく田尾さんに挨拶したわけです。
その時、田尾さんと交わした言葉が、どこかズレていたんですね。私は普通に挨拶をしただけなのに、田尾さんは少し勘違いをされていたんです。つまり、私がオリックスを退団したことはもちろんご存知で、そんな時にわざわざ挨拶に来るくらいだから、これはアピールなのではないか? と。いきなり言われたのが「武司は問題児だからな、ちょっと難しいかな?」という一言で、「え?」と、ただ驚くばかりでした。
しかし、私はただご挨拶をしただけであって、何も楽天に入れて欲しいと直談判したわけではありません。それなのに、挨拶をした日から数日後、田尾さんから直接連絡をいただいたんです。「武司、一緒に野球やるか?」と。最初は断ったんですけどね。「いや、結構です」って(笑)。でも何度かオファーをいただき、子どもからの後押しもあって、じゃあやってみるかと。正直、選手としての賞味期限はとっくに切れていると思っていましたし、楽天で活躍できるなんて夢にも思っていませんでしたからね。
--そんな中、新設の楽天に入団し、第二の野球人生を歩み始めたわけですが、その時の心境はどうでしたか。
これまでと同じをことやっても絶対に通用しないのは分かっていたので、まずは一年間、バッティングにおいて指導いただいたことを、その通り素直に実行しようという決意をしました。そして、シーズン中は常々言われていた右足の体重移動に気を配って打席に立っていたのですが、これが上手くいった。
最初はまったく馴染まなくて、あまり打てなかったのですが、それでも諦めずに同じことを続けていたら、だんだんと打てるようになってきて、結果として25本ものホームランを打てたのです。楽天での生活はせいぜい一年くらいだろうと思っていたのに、結果を出したものだからクビも繋がり、結局気付いたら7年間も在籍してしまいました。
--その間の実績は凄まじく、「中年の星」と言われるほどの大復活を遂げましたね。
ドラゴンズ時代は15年在籍してホームラン200本でしたが、楽天では7年で200本打ちましたからね。結果として史上18人しかいない400本を超えるホームランを打てたというのは非常に大きいです。ひとえに、周りの方からの支援というか、力も大きかったと思います。まず田尾監督に技術的な面でアドバイスいただいたのも大きかったですし、その後に監督として就任された野村(克也)さんの力も大きいです。
選手としての晩年は、力じゃなくて頭が大事だと教わりました。つまり、年を取れば身体は衰えるものなので、伸びしろがあるとすれば、それは考えることだと。頭を使ってプレイすることこそ、今山﨑がやるべきことではないかというアドバイスをいただきました。まあ野村さんとは出会いの印象が最悪でしたが、監督としてはもちろん、人としても素晴らしい方だったので、一皮どころか百皮くらいむけさせていただきました。
もう一度ユニフォームに袖を通す、その日を夢見て
--そして2012年、誰もが予想しなかった、ドラゴンズへの復帰。ドラゴンズファンはもちろん、楽天ファンもこれには驚かされたと思います。
移籍の際にも大きな決断を下しました。実は退団前に楽天からコーチの要請をいただいていたんです。在籍中も、もしそういうお話をいただいたら受けようと思っていました。球団に対してはもちろん、ファンの方々にも恩返しをしたいという気持ちが強かったので、それが自分の使命だと。家族を東北に呼んでもそれを受けようと思っていたのですが、結果として現役続行を求め、ドラゴンズへ戻りました。
--それはやはり選手としての未練、もしくはドラゴンズに対する愛着のような気持ちからの行動だったのでしょうか。
そこはちょっと違っていて、一番の理由は、楽天ファンのみんなに嘘をつきたくなかったというのが大きいです。震災後、東北にいるファンのみんなに向けて、「オレも頑張るから、みんなも頑張れ!」という言葉を残したんです。でも、その年で結果が出せず、そそくさとユニフォームを脱ごうというのはちょっとおかしい。有言実行するなら、現役を続行して、必死に野球する姿を見せたいという気持ちからの結論でした。
とはいえ、やはり戻るならドラゴンズがいいという気持ちが強かったことは否めません。運良く受け入れていただけたので、ここで最後の力を振り絞るんだという意識を持って、戻りました。
--そして2013年、現役を退く決断をされます。
当初は1年目で引退しようと考えていたのですが、周囲からの後押しもあって、次年度の続行を決めます。しかし、2年目のシーズンが始まっても成績はパッとせず、結果を残すことができない状態で2軍行きを命じられてしまいました。何とか1軍に戻ることができたのですが、もう一度2軍行きを命じられたら、もうそこで現役を退く決断をしようと思っていて、ある日のゲームが終わった後、2軍行きを命じられたとき、その足で監督のところへ行って、引退の意を伝えました。
--引退後のビジョンはありましたか。
セオリーであればコーチなどに就いて、球界に残るものだと思いますが、私にはその考えがありませんでした。まずは野球を外から見てみようと思い、今のように野球評論家として仕事をしていこうと。そしてもうひとつやりたかったことが、普通の生活を楽しみたいということです。オリックスを退団した後の時のように、旅行やバーベキューなど、たわいもない遊びを普通にやりたいと思っていました。
--最後の質問になりますが、今後また、ユニフォームを着て球界に戻る可能性はありますか?
もちろんそれを望んでいます。いつかは必ずユニフォームを着て、後輩を育てて、活気溢れる野球界を担っていきたいです。それがファンの方々やお世話になった方、そして何より野球に対する一番の恩返しだと思っています。
--いつか「山﨑監督」が球界を盛り上げて行く日を楽しみにしてもいいですか。
やれるならもちろん、やってみたいです。たった12人しかいないポジションですし、プロとして野球をするなら、誰しも夢見ることでしょう。それを曖昧な言葉で濁すのは嫌なので、ハッキリと言っておきますよ。とは言え、挙手すれば誰でもできるものではありませんから、これから時間をかけて少しずつ相応しい人間になっていきたいと思っています。
《前編》
・「もう野球は辞めた」。移籍を経て失った、野球への情熱。山﨑武司氏(前編)
[プロフィール]
山﨑武司(やまさき・たけし)
1968年11月7日生まれ。愛知県知多市出身。元プロ野球選手。1987年、中日ドラゴンズにドラフト2位で入団。本塁打王、打点王、最多勝利打点などのタイトルを獲得するなど、球界屈指のスラッガーとして支持を集める。2013年に現役を引退し、コメンテーターとして活躍する傍ら、学生向け講演の講師やレーサー、俳優として活躍している
<Text:上野慎治郎(アート・サプライ)/Photo:小島マサヒロ>