インタビュー
2017年11月8日

「バレーボールを選ばなくてもいいよ」。母が言った言葉が私の将来を決めた。元バレーボール日本代表木村沙織(後編)│子どもの頃こんな習い事してました #4 (2/3)

その学校の先生が来てくれて、私ともうひとり同じクラブの子を誘ってくれました。家から学校まで2時間ほどかかって遠かったんですが、その子と「一緒に行こう」となって。両親は「行きたいならサポートするよ」という感じでした。

――遠い学校ということで心配もあったかと思います。

家から最寄り駅までも遠かったので、中学高校の6年間、駅まで車で送り迎えしてくれました。朝6時の電車に乗っていたので、いつも5時40分くらいに家を出て、車のなかで朝ごはんを食べて、夜は練習が終わるのは7時か7時半くらい。そこから電車に乗って家に着くのは9時くらいですね。練習が長引いたときは家につくのが11時くらいになるときもありました。ほとんど寝に帰っていたような感じです。母も働いていたのに、テスト勉強もつきあってくれました。今振り返ると本当にたいへんだったと思います。家族のサポートがなかったら続けることは難しかったと思います。

――子どものときの将来の夢は、やはりバレーボール選手ですか。

実は、子どもが好きなので保育士さんになりたかったんです。でも、高校のときに身長が180センチを超えたのであきらめました。子どもが怖がるんじゃないかと思って。小学校のころは、漠然と「バレーボール選手になりたい」と言っていたこともあったんですが、当時の私にとって「選手」なんてテレビのなかの人。実際にはなれないと思っていました。全日本ユース、全日本ジュニアに呼ばれるようになって、まったく違う世界だと思っていたことがだんだん近くなっていきました。高校2年生のときに初めて全日本の強化合宿に招集されたときは、「テレビで見た人がいっぱいる」と思ってワクワクしたことを覚えています。

――「なにがなんでもバレーボールでやっていく」と思っていたわけではなかったんですか。

思ってなかったですね。高校から次の進路をどうするかというときに、母から「大学や短大に進む道もある。バレーがすべてじゃないから、バレーを選ばなくていいよ」と言われたんです。そこで自分でいろいろな道を考えて、「でもやっぱりバレーがやりたい」とちゃんと選び直せた。母の言葉がなくそのままレールに乗ってバレー……となっていたら続いていなかったと思う。一度、本当にバレーをやりたいのか考えて、自分で決められたからこそがんばろうという気持ちになったのだと思います。

――実業団入りを選んだ木村さんですが、当時お母さんは、木村さんがバレーボールを続けるとは思っていなかったのでしょうか。

いや、何かのときに「ああ言ったけど、絶対『バレーをやる』と言うと思ってた」と言ってました(笑)。でもやはり“自分が選んだ”ということは大切だと思います。

人に恵まれていたからここまで続けられた

――練習以外の経験やできごとで、選手生活に役立ったことはありますか?

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