インタビュー
2019年4月15日

習い事は自分から「やりたい」と言ったものばかり。母は私の意見をいつも尊重してくれました。新体操・畠山愛理(前編)│子どもの頃こんな習い事してました #21 (3/3)

練習から帰ったら夜10時半、母との時間は柔軟体操

――ご両親はそうした思いを知ってどういう反応でしたか。

お母さんはいつも私の意見をすべて尊重してくれていました。演技に関して「こうしたほうがいい、ああしたほうがいい」という意見を言うこともなかったですね。私が新体操を始めてからお母さんも新体操マニアみたいになって、試合のときも私の演技はもちろん、他のうまい選手の演技もすべてお母さんがビデオを撮ってくれていたんです。クラブチームでいちばん上手になってチーム内には目標とする選手がいなくなってしまったとき、誰を見て学ぶかといえばビデオを見るしかない。だからそのビデオを繰り返し見て研究しました。私がテレビを占領していたので、お父さんもお兄ちゃんたちも協力してくれていたんでしょうね。

小学校高学年で選手育成コースに入ると、毎日のように電車に乗って練習に行かなければならないのですが、夜、最寄り駅まで迎えにきてくれるなどの協力もたくさんしてくれました。学校から帰ってすぐに練習に行って帰ってくるのは夜10時半ごろ。

新体操の練習が増えれば増えるほど家族で過ごす時間が少なくなり、お母さんと話す時間も少なくなったんですが、お風呂上がりの柔軟体操でいつも背中を押してくれて、「今日の練習どうだった?」などの会話がありました。今大人になってから思い返すと、柔軟体操の時間を利用して子どもと向き合う時間をつくってくれたのだと思います。

――やさしいお母さまですね。

私は末っ子で待望の女の子だったということもあり甘やかされて育ち、そのままだったら大変なことになっていたと思うんですけど(笑)、新体操で挨拶や礼儀などを含めて厳しく教えられてバランスがとれていたように思います。

お母さんは新体操の練習で厳しくされているから、家ではやさしくするようバランスを取ってくれていたところもあると思います。習い事でも怒られ、お家に帰っても怒られ、では逃げ場がなくなり休める場所がなくなってしまいますから。

――「勉強しなさい」と言われたことは?

特になかったです。中学は地元の公立中学に進学しました。中学3年生の12月に、日本ナショナル選抜団体チームに選ばれ、親元を離れてロシア合宿に参加。そこから半分はロシア、半分は日本という生活が7年間続きました。

お正月に帰れるときもあれば帰れないときもあったし、当時はスマホがなかったのでなかなか連絡も取れない。その後、パソコンでスカイプができるようになったり、スマホでテレビ電話ができるように。今はどこにいても近くにいる感覚だからいいですよね。

⇒後編に続く

[プロフィール]
畠山愛理(はたけやま・あいり)
1994年生まれ、東京都出身。2009年、中学3年生のときに新体操日本代表「フェアリージャパン」入り。2012年ロンドンオリンピックに出場し、団体で7位に入賞する。2013〜2014年までフェアリージャパンの主将を務める。2015年、世界新体操選手権で、団体種目別リボンで銅メダルを獲得。2016年リオデジャネイロオリンピックでは団体8位に入賞し、引退。2017年、日本女子体育大卒業。現在はNHK「サンデースポーツ2020」、BSテレビ東京「バカリズムの30分ワンカット紀行」などに出演。

<Text:安楽由紀子/Edit:丸山美紀(アート・サプライ)/Photo:小島マサヒロ>

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