箱根駅伝を創った伝説のマラソンランナー・金栗四三とは。その功績と激動の人生を辿る (2/3)
生涯で走った距離は約25万キロメートル
金栗さんは、福岡県の県境にある熊本県玉名郡和水町という自然豊かな場所で生まれました。幼少期は、激動の人生を送ることになろうなど想像もつかないほどひ弱な子どもで、夜泣きをしては家族を困らせていたといわれています。
1901年、10歳になった金栗さんは玉名北高等小学校に進学。自宅から学校まで往復約12キロメートルのアップダウンの多い通学路を近所の子どもたちと毎日「かけあし登校」していました。この通学路は、「金栗四三ロード」と呼ばれ、ランニングイベントなどでさまざまなランナーが走ることもあるそうです。現在はきちんと舗装されています。
▲東京高等師範学校の校庭でのトレーニング(和泉町教育委員会)
金栗さんは運動だけでなく学業にも長けており、1910年東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学します。在学中も実力を発揮し、1年生の校内マラソン大会で上級生を抑え3位入賞。2年生のときには、第5回オリンピックストックホルム大会(1911年)の国際オリンピック大会選手予選会に出場し、当時の世界記録を27分上回る「2時間32分45秒」という快挙を成し遂げ優勝。そして日本が初参加したオリンピックマラソン大会に挑み、約55年でゴールという伝説が生まれたのです。
のちに金栗さんは、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか? と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」(「玉名市ホームページ」より)と語っています。
自身の結果を猛省した初のオリンピックのあと、悔しさからトレーニングに励みます。24歳という、アスリートとして一番脂が乗っているころに迎えた1916年第6回ベルリンオリンピック大会は、優勝を期待されていましたが、悲運にも第一次世界大戦のために中止になってしまいます。
マラソンのほかにも、1917年に開催された日本初の駅伝とされる「奠都50周年記念東海道五十三次駅伝徒競走(京都~東京)」も走り、その後1920年第7回オリンピックアントワープ大会では2時間48分45秒の16位でフィニッシュ。1924年第8回オリンピックパリ大会には、33歳という年齢で挑戦したものの途中棄権となり、帰国後引退しました。
▲マラソンシューズの原点となった初期の「金栗足袋」
現役選手時代自身の走りに磨きをかけるだけでなく、より速く走れるようマラソン用足袋の改良にも取り組みました。走っても擦り切れないようにゴム底をつけ「金栗足袋」を開発。その後、踵の上に留め具を付けたものから、足の甲にひもを付けたタイプに改良され、現在も使われている靴型のマラソンシューズの原型を作ったのです。この足袋を履いて生涯で約25万キロメートル、地球6周分と4分の1という、とてつもない距離を駆け抜けたのです。