ラグビーをしている時だけは自分を素直に表現することができた。元ラグビー日本代表・大畑大介(前編)│子どもの頃こんな習い事してました #6 (3/3)
大阪はラグビーが盛んな地域で、輝いている選手は強豪校から声がかかるんですが、僕は実績がなかったので強くは声がかからなかった。でもそれは見方を変えれば、“自分が選べる側”でもあるということ。成績は悪くはなかったので、幅広く志望校を受験できる状況だったんです。候補として初めに出てくるのはラグビー強豪校ですが、自分に看板も自信もないのに強豪校の傘の中で生きるのは違うなと思った。それに数多くのライバル選手がいるなかでチャンスを掴み取れる自信もなかった。
ラグビーは個人競技ではないので自分の成長を感じることが難しいけれど、チームにいい影響を与えることができれば自分の成長も感じられる。たとえば、今、強化中でこれから伸びるであろうチームの戦力となり、壁を乗り越えられたら自分も成長できると考えた。それで、当時は大阪で5番手、6番手あたりの東海大仰星に進学しました。それでも僕にとっては背伸びしている学校です。新入生はみんなタイトルを持っていたので、チームの序列ではいちばん下。
――中学生でそこまで考えて志望校選びができたということに驚かされます。そういう考え方は、何か本などに影響されたのでしょうか。
全然、本は読みません。親が商売していたことが影響したのかもしれません。親父が隣町でパン屋さんを営んでいたので、自分も「その看板を背負っている」という自覚があり、心配や迷惑をかけたくない気持ちが強かった。親は「勉強しろ」とは言わなかったけれど、「自分で責任を取れない行動はするな」と言う人。だから、早く手に職をつけて自立したいと思っていました。とはいえ簡単なものなら手に入れたくない。「将来の夢は宮大工」という時期もありましたね。自分のつくったものが後世に残せるところに憧れがあった。
一人の時間が多かったのも、自分自身にベクトルが向かった一因です。学校が終わったら家に帰って、自転車の鍵だけ渡されていたので自転車に乗って隣町のお店に行って、そこで宿題をする。そこからまた学校近くまで遊びに出かけるのは遠いから面倒だったんですよ。姉は2つ違いで、大きくなってからは一緒に遊ぶこともなかったし。だから、いつも一人で考えている子でした。いわゆる手のかからないいい子。親にしてみれば「どこかで爆発するんちゃうかな」と気持ち悪かったみたいです。
――その後グレることもなく?
ないです。変わった子だった。感情を表現しない冷めた部分もあるし、かといって影になることもない。
――「変わった子だ」といじめられたことは?
時に無視されたというのはありますけど、平気。「なら一人でええわ」という反応だから、無視した相手もおもしろくなかったでしょうね。力はあったから暴力で従わせることはできないし。扱いにくい同級生だったと思う。それは今も変わらないんですけどね。ラグビー選手はみんないいやつばかりで、あったかすぎて、僕にとっては居心地が悪くて。
――子どものころ、ラグビー以外に好きなことはなんでしたか。
よくわからない。ラグビーがほんま好きかというと好きでやってたわけでもないし。常に「大畑大介がどうなりたいか」ということしか考えていなかった。
――子どものころはコミュニケーションを取るのが苦手だったのに、どうして今はそんなに話すことが上手なんでしょうか。
ラグビーをしている大畑大介は別人格だと思ってたんですよ。自分を俯瞰で見ていた自分がいる。「こういう人だったらおもしろいな」「こういうプレーヤーなら輝けるだろうな」と考えて振る舞っているうちに、どっちがほんまの自分かわからないようになっちゃったんですよね(笑)。
▼後編に続く!
[プロフィール]
大畑大介(おおはた・だいすけ)
1975年生まれ。大阪府大阪市出身。東海大仰星高校時代に高校日本代表としてニュージーランドに遠征。京都産業大3年時に日本代表に選出。1998年神戸製鋼に入社。2002年フランス・プロリーグのモンフェランに移籍。2003年、神戸製鋼コベルコスティーラーズに復帰。2011年引退。現在はラグビーW杯2019アンバサダーとして、メディア、講演等で精力的に活動中
所属事務所: 株式会社ディンゴ http://dingo.jpn.com/
<Text:安楽由紀子/Edit:アート・サプライ(丸山美紀)/Photo:小島マサヒロ>