正月といえば箱根駅伝!これまでの歴史やルールをおさらいしよう (1/2)
毎年1月2・3日に行われる“正月の風物詩”箱根駅伝。正式な大会名は「東京箱根間往復大学駅伝競走」です。2024年大会で100回目という長い歴史を持ち、テレビの視聴率は毎回28%前後を記録するメガコンテンツです。おそらく読者の皆さんも、一度はテレビで観たことがあるのではないでしょうか。
今回は、箱根駅伝の歴史やルール、ちょっとした小ネタをご紹介します。これを見たら、正月のテレビ中継がもっと楽しくなるかもしれません。
始まりは大正時代
箱根駅伝の始まりは大正時代まで遡ります。1920(大正9)年、“マラソンの父”として知られる金栗四三さんの「世界に通用するランナーを育成したい」との思いからすべては始まりました。
ちなみに、金栗四三さんは2019年に放送されたNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』では主役として登場し、俳優の中村勘九郎さんが演じました。
第1回大会に出場したのは東京高等師範(現・筑波大学)、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学の4校。東京高等師範が初代の箱根王者に輝き、第2回大会からは東京農業大学、法政大学、中央大学の3校、第3回大会からはさらに3校が追加されるなど、徐々に大会の規模は大きくなっていきました。
太平洋戦争によって1941、1942、1944~1946年と中断の年が5回もありましたが、1947年から2017年まで毎年続き、2024年で100回目を数えます。
瀬古利彦さん(早稲田大学卒)、米重修一さん(大東文化大学卒)、谷口浩美さん(日本体育大学卒)といったのちのオリンピアンを多数輩出し、日本の長距離界のレベルアップに大きく貢献していきました。
大会の基本的なルールをおさらい!
箱根駅伝は東京・大手町から神奈川・箱根町までを2日間かけて往復する、217.1㎞の大規模駅伝大会です。コースは10区間に分けられ、箱根の芦ノ湖をフィニッシュとする5区までを往路、折り返して東京まで戻ってくる6区~10区を復路(2日目)と表します。
そんな箱根駅伝の1番の特徴といえば、何と言っても箱根の“山”を走ることでしょう。この大会の5区(山上り)と6区(山下り)は標高差800m以上を一気に駆け上がる(下りる)ため、平地でのスピード以外に特別な“適性”が求められます。
山の上と下では気温差も激しいため、汗をかくと低体温症や脱水症状に陥りやすく、これまで何人もの途中棄権者を出してきました。一方でこの区間で活躍した選手は「山の神」という称号を手にし、新聞やワイドショーを賑わせることも少なくありません。
現行のルールでは、参加20校にオープン参加の関東学生連合チームを加えた21チームで争われ、上位10校が次回大会の予選会が免除される「シード権」を手にすることができます。
下位チームは毎年10月に行われる予選会を勝ち上がらなくてはならず、チームの年間スケジュールをも左右する大きな転換点とも言えるでしょう。
最多優勝校はどの大学?
ここまで歴史があると、その間に数々の“大記録”が誕生しています。最多出場校、最多優勝校、連覇年数など、各カテゴリーに分けてトリビアをご紹介していきましょう。