「ラグビーはボールを使った最高の遊び」。ラグビー界のレジェンド、元日本代表・伊藤剛臣さんに聞く”ラグビーの楽しみ方” (2/3)
自分が何者であるかを証明したい、甲子園から花園へ
――伊藤さんがラグビーと出会ったきっかけを教えてください。
家が道場をやっていて、小学校のときは柔道と少年野球チームに入っていました。中学では柔道部と野球部がなかったので、バスケットボール部に入りました。高校は、神奈川県の法政二高に入って、甲子園で優勝したことあるような高校で、これはもう野球しかないだろうと。あの頃って、もう野球が一番の人気スポーツですよ。運動神経にも自信があったし、野球部に入ったのですが、途中でやめたんですよ。それで、学校の先生と父親からラグビーを勧められたんです。
――その頃、ラグビーは流行っていたのでしょうか?
中学校の時にスクールウォーズが始まって、ちょうどその頃に、新日本製鐵釜石の松尾雄治さんというスーパースターがいて、7回連続日本一になったという。国立競技場が6万人の大観衆で赤いジャージ、灰色のパターンで、何じゃこりゃって。その頃のラグビーは、新日本製鐵釜石とスクールウォーズが人気でした。
高校1年生で情熱を持て余していますし、自分が何者であるかを証明したいというのもありまして。それでラグビー部に入部しました。「甲子園から花園へ」ですね。
実際にラグビー部に入ってみて、バスケットボールや柔道の経験が活きましたね。ラグビーは球技&格闘技ですから。
――それで高校の時にご活躍されて、その後は?
高校からラグビーを始めて、自分の中で花園という目標がありました。花園には出られなかったのですが、高校日本代表に選んでもらえたんですよ。それで、初めての飛行機と海外がスコットランドでの試合でした。
ラグビーで目標をもらって、高校日本代表になったということで、さらに大きな夢をもらったんですよね。本当の日本代表になりたい、W杯に出たいとか。実際に僕がラグビーを始めた高校1年生で、第1回W杯が始まりました。
そのまま大学に入って、大学では24年ぶりに大学日本一になったんですよ。その後、当時の神戸製鋼と試合して負けちゃうんですけど、今度は本当の日本一になりたいと。それで今度は神戸製鋼に入社しました。
神戸製鋼時代は1年目から試合に出させてもらって、そこで7年連続日本一を経験しました。日本一になった2日後に、阪神大震災も経験しました。
――現役時代に心に残ったエピソードを教えてください。
阪神大震災後は、本当に神戸製鋼のラグビー部が廃部になるんじゃないかと思いました。そのときに、会社から「ラグビーで街を元気にしてほしい、神戸を元気にしてほしい」と。それでV8、日本新記録を狙ったのですが、なれなかったですね。そこから何年も勝てなくなった。それでも、神戸のみなさんや会社の方達が応援してくれて、5年後に日本一に返り咲きました。その頃はV7をやったメンバーもどんどん引退していて、僕らの世代が中心になってきていました。5年ぶりに日本一になったときは、V7をした時よりも何倍も嬉しかったですね。
――日本代表時代の心に残ったエピソードを教えてください。
僕が日本代表に選ばれたのが1996年でしたが、その前年の1995年に南アフリカで行われたW杯で、日本代表がニュージーランド代表に145対17で負けたんですよ。僕の目標でもある夢の日本代表が、世界の大舞台に立って大惨敗をしてしまった。ものすごいショックでしたね。
1995年というのは、日本一になった2日後に阪神大震災、ラグビー部が廃部になるかもしれない。その夏に南アフリカでW杯があって、夢の日本代表が大敗してしまったわけですね。ショックの中、次の年に日本代表に選ばれました。
日本代表の誇りを取り戻すんだって気持ちで、僕ら戦いましたね。1999年、2003年と。ですがW杯では、1回も勝てなかったです。
2003年のW杯のことですが、世界の列強に対して、後半20分すぎまでいい戦いができたんですよ。みんな頭からタックルして必死でした。そしたら、海外のメディアが僕たちのことをこう言ったんですよ。「ブレイブブロッサムズ」と。勇敢な桜たちと。今までは日本代表のニックネームは、桜のエンブレムをつけているので、「チェリーブロッサムズ」と言われていたんですね。その2003年のW杯からは、「ブレイブブロッサムズ」だと。それが今の日本代表の世界的なニックネームでもあるんです。それが代表時代の自慢ですね。1回も勝てませんでしたが(笑)
東日本大震災があった場所、ラグビーで盛り上げようという想いに共感
――41歳のときに、神戸製鋼から釜石シーウェイブスに移ったときの話を教えてください。
宮城県の釜石にあるチームに移ったときは、東日本大震災があった場所でしたので、ラグビーで盛り上げようという想いに共感しましたし、神戸製鋼時代を思い出しました。
41歳でしたけど、大きなケガもなかったので、そういう意味では自分の最後の死に場所ではないですが、現役を終わらせる気持ちでいました。
釜石は、僕の原点みたいなものです。初めてラグビーの試合をテレビで見たところですし、釜石のみなさんの想いに共感して、41歳で入団させてもらいました。
――引退後になりますが、最近あった2019年の日本W杯でのエピソードはありますでしょうか。
2015年には五郎丸たちが頑張って、優勝候補に勝って3勝する。予選通過はできませんでしたが、2019年W杯は、念願の決勝トーナメント進出。日本中が沸き上がりましたよね。本当に夢のようでしたね。
まず、日本で行われることも奇跡だと思ったし、日本ラグビーのそういう歴史を知っているので。これだけ日本中にラグビーが浸透したことは初めてなので、奇跡というのは本当に起こるんだなって思いました。
――2019年ラグビーW杯のアンバサダーをやられていましたよね。
そうですね。ホリプロに所属させてもらっているので、テレビとかメディアにたくさん関わってもらいました。「私はルール分かりません! みなさん、酒を飲んで観賞しましょう!」と言い続けましたね(笑)ラグビーW杯のビール消費量は、サッカーW杯の6倍ですから。「ルールなんてレフリーに任せて、酒を思いっきり飲んでラグビーW杯を楽しんでください!」と、ブレずにテレビ・ラジオで言い続けました(笑)