インタビュー
2018年8月29日

世界のメダルまで到達した“型破り”と“純粋さ”の師弟関係。競泳・小山恭輔×コーチ・八尋大(前編)│わたしと相棒~パラアスリートのTOKYO2020~ (1/3)

 東京2020パラリンピックを目指すアスリートの傍らには、彼ら彼女らをサポートするヒト・モノの存在がある。双方が合わさって生まれるものとは何か。連載「わたしと相棒~パラアスリートのTOKYO2020~」では、両者の対話を通してパラスポーツのリアリティを探る。

 50mバタフライにおいて、北京パラリンピック(2008年)で銀メダル、ロンドンパラリンピック(2012年)で銅メダル、リオパラリンピック(2016年)で5位に入賞した小山恭輔選手(日鉄住金P&E/S7/運動機能障がい)。パラ水泳を始めた時から指導を仰ぐ八尋大コーチとは12年来の師弟関係である。競技を始めてから、あれよあれよという間にメダリストとなった北京までの経緯と、リオ前の不振からの脱却。その裏には、八尋コーチの発想と両者の程よい関係があった。

「片手片足しか使えなければ、僕ならこう泳ぐ」

――パラ水泳を始めたきっかけを伺えますか?

小山:中学校2年の時に脳梗塞を発症して、右半身麻痺の障がいを負いました。発症前も水泳をやっていて、もともと通っていたプールのコーチから、「リハビリでもいいから、戻ってこい」と言ってもらったんです。それが最初のきっかけですね。

障がい者競泳の世界に入ったのは、八尋コーチのおかげです。地元(東京都東久留米市)で水泳に取り組む環境はあったのですが、より専門的にできる場所を探していました。そんな時に、江島大佑(※)さんという選手のお父さんと、私の母が知り合って、「東久留米に住んでいるなら、『東京都多摩障害者スポーツセンター』に行ってみては」と言われたんですね。その施設で、土曜日に『都水連』というのがあって。

※江島大佑:アテネパラリンピック銀メダリスト。北京、ロンドンとパラリンピック3大会連続出場。

八尋:東京都障害者水泳連盟が主催している練習会で、僕がたまたまその時に指導をしていたんです。そうしたら偶然、小山が来た。「おもしろいやつがいるから、見てくれ」と言われて。でもその後、大学受験があった。受験が終わって戻ってきた時に、『フェスピック』(旧極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会/現在のアジアパラ競技大会の前身にあたる)に出たんだよね。

小山:大学1年生の時でした。高校時代は運動もせず、食べて太って……。

八尋:太って戻ってきて、本格的にやるかと、フェスピックに出場した時に、50mバタフライの記録が40秒くらいだった。その時に「何秒で泳げばパラリンピックに出場できるのか」という話になったんですね。当時、日本で一番速い選手が前田大介さんという方で、36秒くらい。まず、そこを目指して本格的に始めたんだよね。

小山:でも、その時パラリンピックという舞台はまったく見えておらず、北京パラリンピックの前年に開催されたジャパラ(ジャパンパラ水泳競技大会)で、当時の世界ランキング6位相当の記録が出たんです。そこから、「行っちゃおうか!」という感じでしたね。

八尋:小山がフェスピックから帰ってきた時に、「バタフライって、普通は前向き呼吸だけど、横向きで呼吸する選手もいるよね」という話になった。「片手片足しか使えなければ、僕ならこう泳ぐ」という話が始まって、マスターズの大会に2人でエントリーして、一度勝負してみたんです。僕は片手で泳いで31秒程度。小山もその泳ぎを真似して35秒~36秒が出たので、「この泳ぎはいけるんじゃないか?」と。

その当時の世界記録が31秒くらいだったんですよ。僕が31秒を出したから、片手、片足で泳いで世界記録が出る可能性があると分かった。なら、小山も真似をすれば出せるんじゃないか、30秒を切ろうよ、と。最初は、「これは果たしてバタフライなのか」という感じでしたが、泳いでみたら、ジャパラで世界6番のタイムを出した。そのまま、北京パラリンピックに出場したら、銀メダルを獲ったから、こっちがびっくりしたという(笑)。

小山:その時の記録(31秒01)が自分の自己記録でもあります。ウキウキしていたというのもありますね。

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