インタビュー
2022年12月15日

どんな習い事も、野球に役立てようと思えば役立つ。絵を描くことも野球に活きた 元プロ野球選手・五十嵐亮太(前編)|子どもの頃こんな習い事してました #34

スポーツ界の第一線で活躍しているアスリートに、幼少期の習い事について訊く連載。自身の経験を振り返っていただき、当時の習い事がどのようにその後のプレーに活かされたか、今の自分にどう影響しているかを伺います。

第33回は、元メジャーリーガーにしてヤクルトスワローズのクローザー、日米通算で史上4人目となる900試合登板を達成した五十嵐亮太さんに、「野球に役立った」と思う習い事について伺いました。絵画も「プロ級」と称賛されている五十嵐さんですが、絵と野球の意外な関係とは⋯⋯?

さまざまな習い事、とりあえずやってみたい子どもでした

――子どもの頃、どんな習い事をしていましたか。

たぶん一通りやってるんじゃないかな。水泳でしょ、ピアノでしょ。ピアノは幼稚園のときかな、母の友人に教えてもらってました。それから、そろばん、公文、ワープロ教室にも行ってたし、習字、絵も習ってました。どれもそれなりに続いてたと思う。もちろん野球も小学校1年からやってたし。

――どれも自分から「習いたい」と言って始めたのですか?

自分で習ってみたいものと、母が「習ってみる?」と、僕に合いそうなものを提供してくれたのと、半々ぐらい。比較的何でも受け入れちゃうタイプだったので、「とりあえずやってみよう、合わなかったらやめればいいし」と。その頃はそうはっきりと思ってたわけじゃないけど、そういう人間でした。スタート時点から嫌だということはあんまりなかったと思います。

――好きだった習い事、嫌いだった習い事などエピソードがあれば教えてください。

水泳は嫌でしたね。スムーズに進級しなかったのと、先生がめちゃくちゃ怖かったんです。理不尽に怒る先生で「やってられない」と思ってやめちゃった。小学生のうちは楽しく習うことが一番。指導者は「楽しいな、続けたいな」と思うような練習をさせることが大事なんじゃないかと思います。

――ファンから「画伯」と呼ばれ、絵の腕前もプロ級です。絵はどれぐらい習っていたのですか。その頃から才能は開花されていたのですか。

絵を習っていたのは小学校1年から3年くらいまで。4年のときに北海道から千葉に転校するまでやってました。模写が好きなんで、子どもの頃から暇なときにふとペンを持ってアニメのキャラクターや風景画を描いていました。学校でコンクールに出されたり表彰されたりすることもよくありました。

そうするとうれしいじゃないですか。今は才能があるなんて思ってないですけど、当時は「もしかして才能あるかな」みたいに勘違いして、そこから今も気分が乗ったときだけですが描き続けているので、うまくいって評価されることは子どもにとっては大事ですよね。

野球にも発想力やイメージする力が大事

――野球以外のスポーツは得意だったのでしょうか。

体を動かすことは好きでした。家の中でも走り回って「落ち着きがない」とよく言われたし、タンスの上から飛んだりして、もう親からしたらサイアクですよね。Jリーグができたときにサッカーに流されかけたんですけど、野球の方がうまくいってたんでそのまま続けました。

野球は小学生の頃は地域のチームに入って、中学校ではシニアリーグに入りました。土日しか練習はないので、平日は陸上部に入部。足はそんなに速くなかったけど、肩は強いので砲丸投げでいけるかなと思ったら、そんな簡単じゃなかった。バトミントン部にも入ってました。バドミントンは投げる動作に近いのでちょっと自信がありました。

顧問の先生には最初、「平日参加するだけでいいよ」と言われたんです。ある時、たまたま1回だけ、土日に何校か集まる合同練習会に参加したら、他校の先生が僕のことを気に入ってくれて、「君、いいもの持ってるからちゃんとやった方がいいよ」と言われて、「僕は野球があるんで」と話したことを覚えています。その先生がうちの顧問にも「あの子、見込みがあるからちゃんとやらせた方がいい」と言ったらしいんです。それで、顧問が「土日も出た方がきっと良くなる」と言い出して、なんか面倒くさいなと思ってやめました(笑)。

――もしかしたらバドミントン選手になって大活躍していた可能性もあったわけですね。

いや、ないですよ。プロ野球選手になれて野球人生を謳歌することができたので、そこに対して悔いはない。自分の選択に間違いはなかったと思ってます。

――北海道ご出身でスキーもお得意だと聞きました。ただ現役時代はケガしないよう1度も滑らなかったそうですね。

父がスキーをやっていたので(元アルペンスキー国体選手)、その影響は大きいですね。引退してから即、ウェアを買って家族でスキーに行きました。スキーは野球引退後の楽しみの一つ。「いよいよ始まるぞ、俺の第二の人生」と(笑)。

――さまざまな習い事の中で、野球に役に立ったものはありますか。

役に立てようと思えばなんでも役に立つと、高校生くらいになってから気づきました。習字でも絵でも、集中力を持って継続すること、この感覚があることが大事だと思うんです。

野球は、毎年毎年自分をマイナーチェンジしていかなきゃいけない。でもそれは、遠目から見たらそんなに変わらない。「よくそんなに同じことを続けられるね」と思われることの繰り返し。その繰り返しの作業から何かを見つけ出さなければならないんです。その作業を僕はしんどいと思ったことはありません。やはりそれは集中力や継続する力があるのだと思います。

それに、絵を描くときは発想力やイメージする力が必要なんですが、それも野球に活きたと思う。野球選手はどういう選手になりたいか、どういうボールを投げたいか、どういう打ち方をしたいか、発想やイメージがめちゃくちゃ大事。自分でイメージできるかどうか、そしてそれが正しいか間違ってるかを判断するセンスも、いろいろな習い事で培われるものだと思います。

いろいろなスポーツを経験することで刺激になる

――2010年から2012年までアメリカにいらっしゃいました。アメリカでは、子どもに季節ごとにさまざまなスポーツをさせるそうですね。一方、日本は地域のチームにしろ部活にしろ、何年も同じスポーツを続けることがよしとされています。そのことについてどう思いますか。

いろんなスポーツをして、体にいろんな刺激を与えることはいいと思います。基本的に野球は右回りだし、右投げだったら右投げの癖がついちゃう。他のスポーツをすればそれがリセットさせられます。内野手だったらサッカーみたいな動きも大事。

そこで何かいいものに気づいて、自分がやりたいことに活かすことができる。それも発想力。他のスポーツから繋がりを発想できるかどうか。それに、今はいろんなスポーツでお金を稼げる時代になってきてるんで、いろんなことをやって、自分に合うものが見つかればそれは最高ですよね。人よりちょっと秀でてるなと感じられるものに出会えたら楽しいし、褒められて注目される。それでいいんじゃないかなと思います。

――日本のスポーツにおける、いわゆる「根性論」は今では批判が多いのですが、思うところはありますか。

これだけニュースなどでも指摘されているので、もう「根性、根性」と言っている指導者はあんまりいない気もしますけど。ただ、僕は根性論が全てダメだとは思いません。根性が活きてくる場面もある。でも、ひたすら同じ練習をやらせてクタクタにさせて、「根性、根性」と言い続けても伝わらない。「根性も大切だ」と感じてもらえるように促せる指導者がいい指導者なんじゃないか。もともと根性がある子もいるので、その子にどういった指導が合っているか見極める必要がありますよね。

野球をやめても母は「別にいいんじゃない」と⋯⋯

――小さい頃の夢はプロ野球選手でしたか?

そうでしたね。その夢が具体的になったのは高校2年生のとき。相手チームの選手をプロのスカウトが見に来たんです。その時に僕がちょっといいピッチングをしたので、それからちょいちょいスカウトが来るようになって、「これは上手くいけばいけるな」と思いました。

それまでは「プロになりたい」とは言うものの、実際どうなるかはわからないじゃないですか。だから高校は野球で進学したけれど、建築科に入ったんです。ものを作ったり描いたりすることが好きだったんで、そういった仕事を見つけるのも自分に合ってるんじゃないかと思って、製図を描きながら野球部でボールを投げる生活をしていました。

――プロの夢が現実になりつつあると知ったとき、ご両親はどのような反応で、どのように応援してくれましたか。

実は、高校1年生のときに、すでに高校の監督は母には「うまくいけばプロにいけるかもしれない」と言っていたようなんです。そう言われると親って力を入れるかなと思いきや、意外とそういうわけでもなかったです。

一時期、心が折れて野球を続けるのは難しいかなと思ったときがあったんです。「ちょっとしんどいからやめようかな」と母に言ったら、「別にいいんじゃない」と言われて。父も母も「好きだったら続ければいいし、嫌だったらそこまで無理することない」という教育だったので、そんなにプレッシャーはなかったですね。僕のやりたいことを尊重してくれた。

――アツくなりすぎず、遠くから見守ってくれていたんですね。

ただ、小中学生の時は「当番」(指導者へのお茶出しや子どもの世話をする係)があったので、弟も野球をやってたから両親は土日は僕らに時間を使わなきゃいけないというのはありました。父親は小学校のときにはチームの監督をやってくれてましたし。

好きでやってくれている親御さんもいると思うけれど、僕自身は子どもの習い事に土日、朝早くから時間を使えるかと言ったらちょっと考えますね。両親には感謝しなきゃいけないですね。

――お父さんが監督をしてくれていたということは、野球が得意だったのでしょうか。

父はスポーツ全般そこそこできたんだと思う。すごいボールを投げてました。父親もあんまり細かいことは言わず、「楽しくやりましょう」という指導でした。平日、キャッチボールやバドミントンの相手をしてくれたのは母親。母も自分では「運動神経が鈍い」と言うけど、やったら意外とできる人だったので、付き合ってくれてました。

後編:正解はない、親は子どもをよく見てどれくらいなら耐えられるのかを判断すべき 元プロ野球選手・五十嵐亮太(後編)

特集:アスリートに聞いた「子どもの頃こんな習い事してました」

[プロフィール]
五十嵐亮太(いがらし・りょうた)
1979年生まれ、北海道出身。1997年、敬愛学園高校からドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。最優秀救援投手や、優秀バッテリー賞を古田敦也と獲得するなど、名実ともにヤクルトスワローズの守護神となる。2010年シーズンから2012年シーズンまでMLBでプレーし、通算5勝をあげる。 2013年より福岡ソフトバンクホークスに移籍。 2019年から古巣・ヤクルトスワローズに在籍。 2020年シーズンを持って引退。引退後は野球解説ほか、多方面で活躍している。

<Text:安楽由紀子/Edit:丸山美紀(アート・サプライ)/Photo:小島マサヒロ>