インタビュー
2019年10月8日

ソフトボールでは怒られてばかり、短距離も遅い。だから持久走大会だけは絶対に負けたくなかった。陸上・柏原竜二(前編)|子どもの頃こんな習い事してました #26 (2/2)

――それは高校や大学で名前が知られるようになっても?

何も言わないですね。進路も自分で決めなさいと言っていました。大学生でも仕送りは一切なし。バイトするわけにもいかないし、奨学金を借りて学費や生活費をまかなっていました。借りた奨学金は自分で返しなさい、と。

別にお金がほしかったわけではなかったんですが、大学で寮生活をしているときに他の選手は実家から大きなダンボールで食料品などが届いていたのに、僕には何もなかったので、ちょっとうらやましいなと思うことはありました。だからといって「なぜうちの親は……」と嘆くようなことはありませんでしたが。

帰宅部を希望していたが先生に誘われて陸上部へ

――中学から本格的に陸上の道へ進んだそうですね。

実は、中学に行っても最初は陸上をやりたかったわけではなく、帰宅部にしようと思っていたんです。ソフトボールでさんざん怒られて、もうスポーツはやりたくなかった。そしたら母親が「帰宅部だけはやめなさい」と言う。じゃどうしようかとなったときに、内通者がいたんです。同じ小学校出身の先輩が陸上部のキャプテンをしていて「あいつは持久走で6年間負けてない」と顧問の先生に言ったらしいんですね。

それで先生から誘われて、とりあえず1週間、仮入部期間に行くだけいってみることにしたんです。これがまんまとはめられて、1週間後の記録会にエントリーされてた。ユニフォームなんてまだないから、Tシャツに短パンで、ランニングシューズだけ近くのスポーツショップで50%オフのものを買って出場。1500メートルで組3、4番くらい。そこから陸上を本格的に始めました。

陸上は自分の結果。負けても自分、勝っても自分。戦う相手は何十人もいるけど、それは1対1の延長線のことですよね。そこがおもしろいと思った。陸上の先生の誘いがなかったら入ってなかったので、今となっては先生には感謝しています。ただ、同じ中学校に小学校から陸上クラブに入っていた県トップクラスの速い選手がいて、学校1人しか出場できない大会は彼が出場。1年のとき、僕は補欠でした。

――補欠とは意外です。そこで諦めなかったのはなぜですか?

ソフトボールでさんざん兄と比べられて、得意だと思っていた長距離でも「あいつとお前とは違う」と比べられてくやしかった。絶対に負けたくないと思いました。標準記録を切れば県大会に行ける別の試合があり、それに出場すると郡山市に宿泊ができるので、それが楽しみでがんばっていたというところもあります(笑)。

――小学生のころのソフトボールの経験が陸上に生きたと感じたことはありましたか。

ないですね。ソフトボールではなにも考えてなかったんでしょうね。練習に行って怒られて「あー怒られた」の繰り返し。ただこなすだけ。「うまくなりたい」「こういう選手になりたい」という思いはなかった。一応、「プロ野球選手になりたい」という憧れはありましたが、テレビで野球を見てもただ「カッコいい」で終わっちゃうんです。「この選手はこういうプレーをするからうまい」などと分析しない。そんなことを考えるくらいならゲームしたいと思っていました。

後編:夢は獣医、飼育員、ゲームクリエイター。ゲームをしすぎてよく怒られました。陸上・柏原竜二(後編)

[プロフィール]
柏原竜二(かしわばら・りゅうじ)
1989年生まれ、福島県出身。東洋大学時代に世界ジュニア陸上競技選手権大会10000mで7位、ユニバーシアード10000mで8位など日本代表として活躍。箱根駅伝では4年連続5区区間賞、金栗四三杯を3度受賞し「山の神」と呼ばれた。卒業後、富士通陸上競技部で活動し、2017年引退。現在は同社の企業スポーツ推進室に所属し、スポーツ活動の支援など幅広く活動する。

<Text:安楽由紀子/Edit:丸山美紀(アート・サプライ)/Photo:小島マサヒロ>

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