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いつも以上ではなく、いつも通り競技すること。日本トライアスロン界のレジェンド・田山寛豪に聞く、世界を目指すための心構え (1/2)

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 世界を舞台に戦いたいと考えるならば、やはり経験者から話を聞くことで大きなヒントが得られることでしょう。日々のトレーニングや大会前の準備、心構えなど。国内で輝かしい成績を残した選手でも、世界という大舞台で実力を発揮しきれないという例は数多くあります。

 今回は、2016年のリオ五輪にも出場したトライアスロン元日本代表で、レジェンドと称される田山寛豪さんにお話を伺いました。これまでどのような道を歩み、どのような気持ちで日本代表として戦ってきたのか。その素顔をご紹介しましょう。

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水泳からトライアスロンへの転向

 日本代表として活躍する選手ならば、長い競技経験を持っているとイメージされる方が多いのではないでしょうか。鉄人レースとも呼ばれるトライアスロンも、最近では中学・高校から競技を始める選手も増えています。田山さんが監督を務める流通経済大学のトライアスロン競技部でも、部員は全員が入学前からトライアスロンに取り組んでいたとのこと。しかし田山さんの場合、高校2年になるまではトライアスロンではなく、水泳選手として活動していたそうです。

「水泳は3歳から始めましたが、大会ではせいぜい関東大会止まりでしたね。そんな中、高校2年生のときに選手が足りないからと、駅伝部に誘われたんです。水泳も有酸素運動なので体力はありましたし、ある程度は走れますから。そこで監督から、水泳ができて走れるなら、あとは自転車さえやればトライアスロンでオリンピックを目指せるんじゃないかって言われたんですよ」

 監督からの一声が、田山さんをトライアスロン競技へと導きました。それが1998年のこと。ちょうど、2000年のシドニーから、トライアスロンがオリンピックの正式種目になったタイミングだったと言います。さらに、近所にトライアスロンをやっている方がいて、その方が自転車を譲ってくれたとのこと。何かに後押しされるかのようにして、田山さんはトライアスロンを始めることとなります。

「トライアスロンを勧められて、とにかくまずは大会に出てみようと思いました。“鉄人レース”とまで言われる競技ですから、キツいけどやってみる価値はあるかな……と。そして、初めてトライアスロンの大会に出場したのは高校3年生。地元である茨城県で開催された『潮来トライアスロン』で、ジュニアでトップという結果でした。とはいえ、ジュニアは10名程度という小規模な中ですけどね」

 実際に競技してみて、トライアスロンが自分に合っていることを感じたそうです。初大会でジュニアトップという結果を出したことからも、田山さんにとってトライアスロンは巡り合うべくして出会った競技と言えるのではないでしょうか。そして田山さんはトライアスロン競技者としての道を決意し、本格的な取り組みをスタートさせていきます。

日本代表を勝ち取るまでの努力

 進学先だった流通経済大学には、当時トライアスロン競技部がありませんでした。そこで田山さんは大学に対し、駅伝部の所属として寮に入りながら、トライアスロン競技ができないかと打診したそうです。

「ランはあまり得意ではなく、駅伝部で一緒にトレーニングできればと思ったんです。当時の監督にお話してみると、駅伝部員と同じように寮の規則を守るという条件で了解をいただけました。その後、大学では駅伝部でランを練習し、スイムは近くにあったタップスイミングで。長期休みにはJTU(日本トライアスロン連合)の主催するジュニアキャンプなどへ積極的に参加し、バイクもトレーニングしました」

 高校3年に出場した『潮来トライアスロン』の結果は、“ジュニアの新星”として地元の茨城新聞などに掲載。その実績が、大学側にも将来への可能性として認められたのかもしれません。大学入学後は、1年生の9月に大学生として初めて大会へ出場。国内オリンピック選手も出場する中で、総合7位・日本人3位という成績を残しています。

 学内やJTU主催の合宿だけでなく、長期休みには宇都宮で『村上塾』を開いている村上晃史氏からも指導を受けた田山さん。怪我は多かったものの、順調に記録を伸ばしていきました。

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