インタビュー
2018年11月1日

マラソン芸人が視覚障がい者ランナーの「伴走者」になった理由(前編) (2/3)

――主務時代で特に印象に残っているエピソードはありますか?

箱根駅伝で運営管理車に乗ったことですね。選手の後ろで監督と同席するのですが、あの景色は最高ですよ。沿道にたくさんの観客がいて、後ろにはズラーっと車が並んで、まるで大名行列のようでした(笑)。

1番思い出に残っているのが、4年時のアンカー10区。同期の治郎丸健一(※現在はラフィネグループで選手兼任コーチ)が最初で最後の箱根駅伝に臨んだ時に、いつもだったら「治郎丸いけ!」とスピーカー越しに熱い檄を飛ばす大八木監督が、「お前、言っていいぞ」とマイクを渡してくれたんです。何を言ったかは覚えていないですが、後で治郎丸に「あの時、聞こえてた?」と聞いたら、沿道の声援がすごすぎて全然聞こえてなかったみたいです(笑)。

あとは、大八木監督のご指導の中で、「気付くこと、感性を大事にしなさい」という教えが印象に残っています。例えば選手や監督から「これをやって」と言われてから動くのではなくて、自分で予測して先に準備しておくなど。この教えは社会人になってからも、すごく役に立っていますね。

知的障がい者施設の生活支援員→ものまね芸人へ、そして伴走者に

――大学卒業後は、どのような進路を進んでいったのでしょうか。

教員免許を取得したのですが、福祉専攻ということもあり、知的障がい者施設の職員(生活支援員)になりました。障がい者の方は自分の気持ちを相手に伝えることが難しい方もいて、周りの支援者が気付いてあげないといけません。「言いたいことはこうなのかな」と気持ちを汲み取ったり、ちょっとした変化に気付いてあげたりしていくうちに、「あれ、これって学生時代にずっとやってきたことだな」と思ったんです。ここでも大八木監督の教えが生きているんだなと実感しましたね。

次ページ:「伴走をやってみない?」と言われたことがきっかけ

1 2 3