インタビュー
2018年4月23日

ピアノを習い、部活ではトランペット。夢は音楽の先生のはずが、19歳でスポーツの道へ。元パラアイスホッケー日本代表・上原大祐(前編)│子どもの頃こんな習い事してました #11 (1/3)

 スポーツ界の第一線で活躍していたアスリートに、幼少期の習い事について訊く連載。自身の経験を振り返っていただき、当時の習い事がどのようにその後のプレーに活かされたか、今の自分にどう影響しているかを伺います。

 第11回は、2010年バンクーバーパラリンピック銀メダリスト、2018年平昌パラリンピック出場の元パラアイスホッケー日本代表の上原大祐さんです。二分脊椎による下肢障がいを持つ上原さんは、小さなころからピアノを習い、学校ではトランペットを吹く音楽少年でした。大学では建築科に進学。19歳でなぜパラアイスホッケーを始めることになったのでしょうか。

ピアノを弾きながら歌っていました

――子どものころどんな習い事をしていましたか?

小学校から中学2年生くらいまで、小学校のすぐ横にあるピアノ教室に通っていました。友だちが習っていたので「自分も」と入ったんです。それほど熱心に練習していたわけではなかったので大した腕前ではないですが、発表会に出たり、家で弾きながら歌ったりしていましたね。弾いていた曲で一番印象に残っているのは、久石譲さんが作曲したアニメ「魔女の宅急便」で使われている「海の見える街」です。

本当は、学校の吹奏楽部でトランペットが吹きたかったんですが、小学校にあるトランペットは全部使われていて、「トランペット以外の楽器ならいいよ」と先生に言われて。「他の楽器は目立たないから、中学校に行ってからトランペットをやろう」と。それで、中学校から吹奏楽部でトランペット、高校は吹奏楽部がなかったので3人でバンドを組んで、文化祭や路上でギターを弾いていました。大学のときはオーケストラ部で再びトランペットを吹いていましたね。

――音楽が大好きだったんですね。

音楽は好きですが、スポーツも好きでした。ただ、体育の授業はみんなと一緒に受けていたけれど、少年団や部活に入って本格的にプレーするのは、ハードルが高い。「みんなと一緒に何かしたい」というときに、選べるものが音楽だったんです。パラリンピック選手で“生まれつき”という人は、けっこう「子どものとき音楽をやっていた」という人が多いですよ。2010年のバンクーバーパラリンピックでキャプテンを務めた遠藤隆行さんもサックスが上手い。

高校では音楽科への進学も選択肢に

――ピアノはずいぶん長く続けていましたが、その間、辞めたいと思ったことは?

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