インタビュー
2020年5月26日

アップアップガールズ(2)鍛治島彩「万年補欠だったけど、バスケから多くのことを学んだ」(前編)│アイドルと、スポーツと、青春と。#29 (2/3)

諦めないことが私の唯一の取り柄だと思っていた

――それでも諦めなかったのはなぜだったのでしょうか。

それが私の唯一の取り柄だと思っていたからです。お姉ちゃんは、常になんでもできちゃうんですよ。みんなの憧れ的というか。足もすごく速くて、陸上部の子を入れても学内で上位3人には入っていました。バスケも4年生の頃から試合で活躍していて、私の同期は「学校で一番かっこいい」と言っていました。

それに比べたら、私はいつもダメダメで。バスケと同時期にやってた水泳も、お姉ちゃんは飛び級して半年でバタフライまで進んだのに、私はずっと蹴伸びクラスのまま。できるようになった子を見送る「長老」って呼ばれていました(笑)。でも、ダメだからこそ、諦めずに頑張るしかない。そう思ってましたね。

――どんなことを頑張っていたんですか?

私は身長が低くて、当時は150cmもなかったんですよ。シュートはいつも止められてしまうので、ひたすらドリブルの練習をしてました。たまにお姉ちゃんが「ディフェンスをやってあげる」って手伝ってくれたんですけど、「そんな下手なドリブルどこで使えるの?」とか嫌味ばっかり言ってきて、当時はムカついていましたね。ただ、そうやって練習を続けてたのに6年生になっても試合に出れませんでした。

悔しくて中学でもバスケを続けたんですけど、状況が変わることはなくて。しかもお姉ちゃんは2年生でレギュラーになって、市の選抜チームに選ばれて部活の練習に来れない日もあるくらい活躍していたので、私が入部したときは「鍛治島の妹が来る」「即戦力だ」って大きな話題になっていたんです。

――それは大きなプレッシャーですね。

本当にドキドキしながら部活に入りました。しかも4月の入部早々、練習試合で「鍛治島妹、試合に出てみろ」って名前を呼ばれて試合に出ることになったんです。でも、30秒で引っ込められちゃって。

身長が低いうえに動きもおぼつかなかったんでしょうね。「小さいし、危ない。ケガをしそう」と言われてしまって。ミニバス時代はずっと試合に出れなかったので、心機一転のつもりだったけど、あ、チャンスを逃した……って思ったのを覚えています。

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